【霊光殿天満宮と京都御苑】上京区を堀川通りから御苑までひとりぶらぶら【京都街写真】
ちょいと気が向いてご近所散歩。
(2022年11月12日撮影)
堀川通り
堀川通りは南北の通りで平安京造成当時から堀川という運河が流れ物流を支えていました。堀川を挟んで西堀川通りと東堀川通りとなり、写真は西堀川通り。東堀川通りは一方通行のそんなに広い道じゃないのに、かつては路面電車が走っていました。堀川は数年前に大規模に改修されてとても綺麗になりましたね。中立売の広場は憩いの場になっていますね。
御苑めざして東へ向かいます
霊光殿天満宮
寛仁2年(1018年)、菅原道真の6代後の子孫にあたる菅原義郷が勅命により、かつて道真の領地であったとされる河内国若江郡に神殿を建てたのが始まりである。社名は、道真の左遷の際、天から一条の光とともに天一神・帝釈天が降臨したとの伝説によるものである。蒙古襲来の時には後宇多天皇が当社にて夷賊退治の祈祷を行わせたところ元の船がことごとく沈んでしまったので『天下無敵必勝利運』の額を天皇より賜った。応仁の乱の際に社領を失い、東寺境内に遷された。徳川家康は当社を深く崇敬し、元亀元年(1570年)に天下太平の祈願をし、また、若江家の再興に尽力した。家康の死後の寛永13年(1636年)、徳川家光が仙洞御所にあった家康の像を当社に移し、祭神とした。江戸時代に社家の若江家が再興され、塔之段に社殿を再建、宝暦11年(1761年)に現在地に鎮座した。現在の社殿は、明治5年に近衛家の旧鎮守社を移築したものである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京都御苑
京都御苑が京都御苑になったのは明治以降です。なもんで、平安京の大内裏とは場所すら違っています。御所は、元々は土御門東洞院殿と呼ばれる皇族貴族の御所だったり邸だったり、時に里内裏に使われることもありつつ、南北朝時代に御所として定着したみたいですね。
御苑を出て西へ帰ります
以上でございます。