1年間で(だいたい)60冊の本を読んで分かったこと
大学3年生までの多忙さから突然解放されて、大学4年生というのはいささか暇を持て余すもので、大学生のうちに何かやりたいなぁという気持ちのもと、2023年の目標として「本を100冊読む」をやってみました。結果的には60冊にとどまりましたが、60冊読んでどんなことが起こったのか、どんなことが分かったのか、どんな考え方になったのか、を、つらつらと書いていきます。
とても長くなりますから、目次からお好みで適当なところを読んでくれればよいかなと思います。目次だけ読んでブラウザバックというのも効率が良いかもしれませんが、まぁ、たまには心穏やかに長文を読んでみてもよいかな、という方は、おおらかな心でお読みいただければ幸いです。
開始当初に自分に課した読書ルール
初めに決めたルールというものは段々と変わっていくのが世の常ですが、それは自分の読書ルールについても同様でした。けれども、最初というのは何事においても肝心ですから、当初のルールを書いてみようかと思います。
小説は読まないこと
なるべくヘビーな本を選ぶこと
役に立たなそうな本を選ぶこと
当初の取り決めはこの3点でした。
それぞれに簡単なコメントを加えますね。
ひとつめ。当初は、恥ずかしながら、小説からは体系化された知識を得られるわけではないから学びになりにくいと思っておりました。この試み以前は読書経験があまりありませんでしたから、こう思ってしまったのかもしれません。2023年の終盤は考えが変わり、小説も読んでおりました。
ふたつめ。ヘビーな本というのは、ページ数が多く、背表紙を見たときに横に長い、太った本のことです。まるまると太った本は知識でお腹いっぱい。これは、大学4年生という時間がある期間にこそ読めるタイプの本かと思い、このルールを作成しました。こちらは概ね年間を通して守られたルールでした。
みっつめ。こちらも大学4年生という期間で、効率や実用性に駆られることなく、のびのびとしたかったという気持ちのもとで取り決めました。ただ、60冊読んでみた調子だと、自分は今後一生のびのびと暮らしていきそうです。ルールというより、自分の好みかもしれません。
読んだ本のリスト
2023年の前半は、尊敬する駿台随一の知の巨人、大島保彦先生のブックリストから主に選定しました。中盤から後半にかけては、概ね自分で選んだ本だと思います。我ながら、全体的になかなか良質なものを読めたと思っていますので、ブックリストとしてご活用ください。なお、こちらは背筋をぴんと伸ばした参考文献リストではないので、正確なタイトルではないかもしれません。
マックス・ウェーバーを読む
「読む」技術
生命の教養学 生命の経済
実況料理生物学
はじめて読む聖書
生命の教養学 生と死
学ぶ脳 ぼんやりにこそ意味がある
まなざしのレッスン1 西洋古典画
まなざしのレッスン2 西洋近代画
買い物の日本史
山火事と地球の進化
ファンダメンタルな楽曲分析入門
お皿の上の生物学
地図から読む歴史
1冊でわかる 政治哲学
音楽の聴き方
犯罪の科学
基礎からわかる動物行動学
イスラームの人間観・世界観 -宗教思想の深淵へ-
忍者学講義
相分離生物学の冒険
映画館と観客の文化史
スポーツ観戦空間論
キリスト教の原点
芸術と脳
資本主義が嫌いな人のための経済学
基礎からわかる感染爆発
植物の知恵-その仕組みを探る-
地域再生の失敗学
司法・犯罪心理学(同名のテキスト多数。どれだったか不明)
歴史は実験できるのか
僕たちはまだ少し期待している
ヨコとタテの建築論
コミュ力は「副詞」で決まる
新版 アフォーダンス
総理にされた男
建築で読む日本の歴史
神と日本人
学ぶことの歩みと成り立ち
太陽の塔
四畳半タイムマシンブルース
中動態の世界
電柱鳥類学
都会の鳥の生態学
オルタナティブ地域社会学入門
銃・病原菌・鉄(上)
銃・病原菌・鉄(下)
科学はなぜ誤解されるのか
傲慢と善良
ヒトはなぜ絵を描くのか
変容するシェイクスピア
恋愛の日本史
モーツァルトを「造った」男 -ケッヘルと同時代のウィーン
シマウマの縞 チョウの模様 エボデボ革命が解き明かす生命1億年の謎
ウォール街のランダム・ウォーカー
セミコロン;
ビジュアル・シンカーの脳
何者
貧乏人の経済学
神去村なあなあ日常
学術書の編集者篇
アート・ローの事件簿 美術品取引と権利のドラマ篇
おすすめの本
リストを書き出してみると、たくさん読んだなぁと感慨深い気持ちになります。読み始めて数ページでやめた本もこのほかにいくらかありますから、なかなかなものです。中でもおすすめするなら「読む」技術という作品です。この本で読んだことが、以降の本の読み方の基盤になり続けました。
今年1年で感じたことなど
ここからは、今年1年間で感じたことを書いていこうかと思います。
読書メモは形骸化する
読み始めた当初からしばらくは読書メモを取って本の内容を記録していたのですが、自分にとってはこれがなかなか大変でした。
メモを取る中で、読書によって知や見識を育むことから、記録をすることが目的になりました。なんだか「記憶して」「使える知識」にしているようで、みっつめのルールに反する気がしました。
知識というのは、いつかどこかで使うことがあれば、ようやくその時に参照すればよいもので、基本的には寝かせておけば良いものだと思います。自分はそう思っていますから、メモでなくても、原本があれば良いような気がしました。twitter(X)で同様の経験をされた方を見かけたのもあって、これはいけないと重い、メモは15冊目あたりから取ることをやめました。
網羅的な本は、血肉になりにくい
この記事全てが個人的な感想ですが、大学のオムニバス講義録のような本の場合、話題がどんどん変わるので、読んでいる時はとても楽しいのですが、読み終わった後じゃあ何が書いてあったかあまり覚えておりません。
この本はこんなことが書いてあったな、というのは、1つのテーマに絞った本の方が、その傾向が強いかなと感じました。
本を読んだ場所が思い出になる
読書は、自分の知らない世界への手軽な旅行だとよく言いますが、自分は本を持って旅行に行きましたので、この本はここで読んだというのがなかなか鮮明に思い出されます。
大学の図書館、窓際の一人席で読んだ本。兵庫の相生駅に向かう新幹線で読んだ本。渋谷のサンマルクで読んだ本。下北沢の読書専用のカフェで読んだ本。教育実習先の学校で読んだ本。地元のスターバックスで読んだ本。会話ができる本屋さんで買った本。早稲田大学の図書館の2階で読んだ本。18切符の東北旅行の最終日の電車で読んだ本。
1枚も写真を撮っていない記憶も多々ありますが、再び同じ場所に行ったとしたら、この本はここで読んだと指させる程度には細かな記憶が残っています。自分にとっては、写真よりもよい思い出かもしれません。
そのときに必要な本というのはある
みっつめのルール 役に立たなそうな本を選ぶことに反してしまいますが、必要な本というのはあるのだなぁと感じました。そして、必要なときに読んだ本は、関係ないときに読んだ本よりも、自分のためになるものです。関係ないときに読んだ本は、後々にじわじわと効いてくるはずですが。
就職に悩んだときにお仕事小説を読むとか、専門外の分野を学ばなければならなくなったときに関連した一般書を読むとか、NISAを始めるために投資の本を読むとか。教育実習でもやもやしたときに、教育の本を読むとか。
即効性がある本よりも、じわじわと効いてくる(あるいは、死ぬまで一切役に立たない)本の方が好きなのですが、出会うべき時に出会った本というのも大切なものです。
分厚い本を(気軽に)読もうと思えるようになる
これを学びたいな、と思ったときに、自学できるというのは、生きる上でたいへんしたたかな力だと思います。年間(だいたい)60冊を読み通す過程で、分厚い本もまぁ読めないことはないし、わかりやすさに心血を注いだ本よりは、もうちょっと論理がしっかりしている本の方が、信用できるかどうかの判断ができるかな、という考え方になりました。
100冊読むつもりでいますから、学びたいことや学ぶ必要があることが立ち現れたとき、新たに本を手に取ることに抵抗がなくなりました。100冊のうちの1冊ですから、と友人に言うと、たいていの場合はびっくりされてしまいましたが、新たなことを学ぼうと思ったときに抵抗なく学び始められるというのは、素敵なことだと思います。
手に取る前から、なんとなく書いてある内容が分かることがある
ほんとにそんな人がいるのか?と半信半疑でしたが、30冊を超えたあたりで、少し分かるようになりました。特定の分野に限ることですが。
たとえば「その日暮らしの人類学」という本がありまして、自分はこの本を手に取ったことすらありませんが、恐らく「1日の生活費が2ドル以下の絶対貧困層の暮らしと、その人々は一見不合理な選択をしているように見えるが、実際はその人にとっての論理がある(銀行に貯金ができないのではなく、しないのだ、とか)ことが書いてあるのだと思います(バーナム効果っぽく見えるのを防ぐため、なるべく具体的に書いてみました)。これは完全な知ったかぶりです。
Amazonレビューを覗いたら、概ねそんな内容みたいな気がします。完全なる知ったかぶりで、実際は大間違いだったら恥ずかしい限りですが……。(部分的にでも)合っている前提でお話をすると、先ほど太字で書いた内容は、読書リストの「貧乏人の経済学」という本の内容です。ノーベル賞受賞者が書かれた本で、こちらは人類学ではなく経済学ですが、絶対的貧困層への援助の分野では大変有名な本です。その上で新書の方のタイトルを見ますと、「その日暮らし」というギリギリの経済状況を表す言葉や、「もう一つの資本主義経済」という、先進国の発達した資本主義経済と対比されてそうな表現です。
まぁそんなに離れたことは書いてないだろうな、というので、手に取る前から推論が立てられました。手に取る前から内容が分かるというのは、きっと、今までに読んだ本と目の前の本を見比べるという作業なのでしょう。
もっとたくさんの本を読んだら、もっと違う景色が見えるのでしょうか。
そしておそらく重要なことは、読む前から予想できてしまったとしても、謙虚な姿勢を貫くことでしょう。現在の自分は矮小で傲慢な性格なものですから、本の内容が分かれば、全てを分かった気になって満足してしまいますが、内容が知ったかぶりできても、そのうえでしっかりと読み、予想との相違を確かめることが好ましいのではないかと考えます。
布団の中で本を読むと、十中八九眠る
これは何冊読んでも覆らない絶対の真理のようです。
事実を述べる本ばかり読むと、柔らかな心を失う
ひとつめのルール、小説は読まないが良くなかったなという反省です。
事実や論理を淡々と述べていく本もとても良いのですが、そのせいで人の心の機微や、人間的なやさしさというところから離れてしまうことがありました。本を読む中で、そこに書いてある知識を吸い上げることにばかり注力してしまった気がして、それが悪かったのかなと思います。
ダニング・クルーガー現象とはよく言ったもので、本を読み始めたときは「世界の全てが分かるようになる!」と、そんなことはないだろうと形式的には思っていても、本心では全知全能になれる高揚感を覚えました。これは、自分の場合は、自分だけよければいいや、という利己的な気持ちにも繋がりました。自分のためだけの読書になってしまったのですね。
ただでさえ、論理や合理性の海の中では人間性は溺れてしまうのに、それに傲慢さが加わると、もっともっと社会性が失われてしまう気がします。論理や合理性は他者や自分との距離を取ることができる分、頼りすぎると自分や他者の近くに戻ることができなくなってしまいます。人生経験が豊富で老獪な方が論理的な本ばかり読むのは良いのかもしれませんが、まだまだ若い大学生が小説を一切読まず、論理的な本だけ読むのは良くないなと感じました。
ただし論説文であっても、だいたいの本は純粋な論理だけから構成されるわけではなく、著者の考え方や人間味が垣間見えます。本とはたいていの場合、人間が何かを主張したくて書いているものですから、その声に耳を傾ける意識を持つことが大切でしょう。
本の偏りには注意しなければならないが、気がつくと偏っている
何冊か読んでくると、自分の好みのジャンルというのが定まってきます。自分は、経済学と生物学が好みでした。論理と合理性の海のど真ん中です。ゲーム理論を現実世界で実行したら、友人の何人かは去って行くと思います。
気をつけていても、好みのジャンルはよく読んでしまうものです。しかし、「ヒトラーの秘密図書館」という本(この本も自分は読んでいません!書評だけ読みました)を挙げるまでもないかもしれませんが、偏った読書は偏った人間性を生み出してしまいます。読んだ本は、良くも悪くも血肉になります。偏りは好みなので仕方がないところもありますが、何冊も読む場合は「自分の読書は偏っている」という自覚を持つことが肝要だと思います。
合わない本は、1章だけ読んで撤退する
事前知識の有無、文体の難解さ、内容への興味などでのミスマッチにより、早々に撤退した本は何冊もあります。大学院生向けの論文集を無理やり読破したこともありましたが、自分には結局よくわからないままでした。
それでも、先ほどの偏りという事柄を考えますと、本来なら好き嫌いせずに挑戦することが好ましいのだと思います。全く読まずに投げ出すことや無理やり全てを読破することは両極端ですから、折衷案として、最初の1章くらいは読んでみようというのが自分には合っておりました。
最初の1章だけでも、学びになることや血肉になることは多いものです。今年の反省点でもありますが、読書は読破数を競うゲームではないのですから、途中まで、という本があってもよいのだろうと思います。特にアメリカの本は、全体を通して同じ主張の繰り返しがなされるものが多いですから、最初でやめるのもありなのかな、と思います。
年間100冊はかなり忙しい
単純計算で、365日/100冊で、4日に1冊程度のペースで読み進めなければ年間100冊は達成できません。大学4年生の若人には多大な時間がありますが、実際にやってみて、4日に1冊というペースは、読書中に立ち止まることが許されない速さだと思いました。
年間60冊でも6日に1冊。忙しかったなというのが正直な感想です。ときどき立ち止まりながらも、今年はとにかく読み進めようという気持ちでしたから、どんどん進んでしまいました。
今年の10月ごろに「休日にがっつり読書をして、疲れた」と友人にこぼしたところ、「読書って娯楽なんじゃないの?」と言われ、ハッとしたことがあります。忙しさの中で "こなす" 読書は、娯楽としての性格が失われてしまいます。本当はもっともっとスローな読書を楽しむことが好ましいのでしょうが、それでも、今の自分は多読を目指してしまいます。まだまだ青二才のメンタルなのでしょう。
軽い本こそ丁寧に読まねばならない
比較的軽い本として、新書があります。ページ数も少なく、かなり平易に書かれていますから、たいへん読みやすく、するすると読めます。
ただ、あまりするすると読んでしまいますと、1か月後や2か月後にどんな内容だったかを思い出そうとしたとき、さっぱり忘れてしまっていることが少なくありませんでした。
結局、よく覚えていたり、身になっているのは、悪戦苦闘しながら2週間近くかけて読んだヘビーな本です。(2週間は、そんな本にとっては速すぎる消費ペースなのでしょうが…) 軽い本をじっくりと丁寧に読んだこともありましたが、この内容はまずまず残っております。
本はなるべく買った方がよい
前提として、本の内容を覚える必要はないし、覚えようとして読むことは精神的になかなかしんどいと思います。あらゆる本は辞書のようなもので、参照したいときに都度本棚から取り出すことが好ましいのだと考えます。
そのためには本を買って自分のものにする必要がありますね。自分は、今回の60冊はほとんど大学の図書館で借りました。すべてを買ったら、2000円×60冊=120,000円程度の出費になるでしょうか。このくらいは買える程度に稼げる職を得たいものです。
なお、何百冊もの内容を頭に入れていて、体一つあれば自由自在に引用ができる、といった知の巨人と呼ばれる方々は、おそらく長年の読書経験から、気がついたら"覚えてしまった"のではないかと邪推します。長い目を持って、気長に続けることが肝要でしょう。
SNSのインフルエンサーの発言は、そこまでの根拠がない
Twitter(X)では、フォロワー数万人のインフルエンサーが、自分や周囲の経験から、たとえば「若者が恋愛しないから少子化が進んでいる」などの趣旨の発言をしているのを見かけることがあります。そのポストについたいいねとリツイートの数から、これだけの人がこの主張に賛同していて、ということはこの主張は間違ってないかな、と思ってしまいます。
しかしながら、では実際に本にあたってみると、このような因果関係を明らかにするためには、学術的には相当な考察と複数の手続きが必要なことがよくあります。300ページほど書いておいて、最後には「よくわからない」と締める本がほとんどです。
ついついSNSで物事を分かった気になってしまいますが、かなりの場合はそうではないのだ、と、批判的な目を向け、気軽に見られる会話ツールにすぎないとして、SNSを見ることがよいのでしょう。
いくら読んでも、世界のことはよくわからない
こう言っておけば知識人の仲間入りができるような気がして、幾分背伸びをしている部分は否めませんが、おそらく、いくら読書をしても世界のことは分からないのだと思います。
知識人の方からすれば、60冊程度では2桁ほど不足なのだろうと思いますが、60冊程度でも、世界を見るときの目線は60通り増えるわけです。誰が言っていたか忘れてしまいましたが、読書というのは世界に補助線を引く行為です。その補助線に沿って世界を見ることができるようになるわけですが、たくさんの補助線を引けば、補助線で世界が埋まってしまうことになります。中学高校の初等幾何の図形問題で、補助線を何本も引けば、図がかえって分からなくなってしまうように。
補助線がなければ物事はシンプルに見えますが、実際の物事は相当に複雑です。しかし、これは言うは易し感じるは難しといったところでしょうか(行う、ではなく)。まだまだ自分は若いので、この境地に達するまでにはまだまだ長い時間が必要なのだと思います。
おわりに 脳内図書館という考え方
長々と書いてきましたが、読書や体験については、リストの中にある「音楽の聴き方」 という本に出てきました「脳内図書館」という考え方が好みです。
著者の岡田氏曰く、人は生きてくる中で様々な体験をし、それが脳内に蓄積されていくわけです。そして、その体験は本のようなもので、その集積として、脳内に個々人だけの図書館が完成するのですね。その図書館の蔵書を通じて、人は様々な価値判断をしていくのだとか。
大学生のような若いうちの経験というのは、脳内に蓄積されていって、それが後々に、じわじわと、効いてくるのでしょう。普通に体験を積んでもよいし、読書で直接、知識や主張を詰め込むのもよいでしょう。
いや、「詰め込む」というのは語弊がありそうです。読書というのはもっと娯楽的な性格を持つものであってほしいですね。深夜遅くまで机にかじりついて、エナジードリンクを片手に数か月後の入学試験に備えるような、忙しない時間ではなくて(それはそれで、豊かな時間でしょうが)、もっとこう、暖色の照明の下で、淹れたてのココアをすすりながら行うような。
実際、年間60冊程度の読書量であれば、何かを犠牲にして必死になって詰め込む必要はなく、アスレチックに行ったり旅行をしたりする時間は容易に取れます。その生活の中で、たまにカフェに出かけて1時間くらい読書をするくらいの感覚でした。今年1年間は、身体的な体験と読書の両方で素敵な脳内図書館を作り上げられたなと思います。
よい1年でした。
ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございます。なにとぞ、よいお年をお過ごしくださいませ。
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