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映画「牛久」を観て思う「人権」と「差別」意識

昨日、2022年3月1日(火)に渋谷イメージフォーラムにて、トーマス・アッシュ監督のドキュメンタリー映画「牛久」を観てきました。

数年前から入管収容施設での職員による度を越した収容者への拘束の映像をニュースなどで見るようになりました。
昨年はスリランカ女性のウィシュマさんが、名古屋入管の施設で亡くなった事件が大きく取り扱われたりもしました。
体調を崩し、入院レベルであったのに、入管は適切な処置をすることもなく、その死に対しても一切の責任を認めていない、人ひとりが死んだにも関わらず、自分たちは正当だと主張しているというのです。

いったいそんな入管施設とは、どんな所で、中でなにが行われているのでしょうか?
入管施設の実情が少しでも知れるかと思い、この映画を観にいきました。

隠し撮りで撮られた映像や、収容者たちの命がけの証言を通して、入管施設の実情が立体的に浮かび上がってくる構造になっています。
まず思ったのは、これは本当に今、令和の時代に民主主義で法治国家の日本で行われていることなのか? 戦前の話なのではないのか? ということです。
目と耳を疑うような映像と音声が次から次へと畳みかけてくるのです。

そもそも入管収容施設とはどんな役割を持った施設なのでしょうか?
映画のパンフレットより抜粋させていただきます。

 日本に住む外国籍の人の在留資格については、出入国管理庁(入管庁)が審査し可否を判断する。入管庁は在留許可期限を越えて滞在する、いわゆるオーバーステイになった人、つまり在留資格がない非正規滞在の人たちを、行政権限により全国の入管施設に収容している。現在、収容施設は、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・高松・福岡の出入国在留管理局、空港など支局が7カ所付設されている。
 こうした地方施設から、退去強制が決まった外国人を受け入れ、送還するまでの間、収容する入国収容施設が、牛久市内にある「東日本入国センター」いわゆる「牛久」及び、長崎県にある「大村入国管理センター」である。(映画パンフレットより)

在留資格を失くした外国人が強制退去により送還されるまでの間、収容される施設が「牛久」です。そしてその収容施設には、なぜか「懲罰房」があり、職員は手錠や紐で収容者を拘束できるのです。
彼らはまるで逮捕権を持っている警察官のようです。

収容者を懲罰房に入れるため、職員が五人以上で一人を拘束をする映像が流れていました。
拘束した収容者をねじ伏せ、後ろ手に手錠で両手を縛りあげ、首に拳をあて体重をかけて押し込んだりします。
「息ができない!」
収容者は叫びます。
その姿はアメリカのミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドさんが、警察官に拘束され死亡したときの映像を彷彿とさせました。

なぜ、こんなことが行われ、それが許されているのでしょうか?
この行為が民主主義で法治国家である日本で、しかも国家の機関が行っているのです。
これは、どう考えてもおかしい。

どう見ても収容所の職員は、拘束する術を身につけ、教育され、訓練を受けているとしか思えません。
なぜ、警察官のようなそんな技術を身に付ける必要があるのでしょうか。

その答えが映画パンフレットに書いてありました。
これも引用させていただきます。

 60年代、法務省幹部の一人(入国参事官)は「(外国人は)煮て食おうが焼いて食おうが自由」と著書に書いた。彼が極めて特異な見解の持ち主だったというわけではないだろう。入管業務に携わる者たちにとって、外国人が取り締まりの対象であるといった思想は戦前から引き継がれたものだ。
 法務学者の大沼保昭氏が著した『単一民族社会の神話を超えて』によると、戦前の入管業務は内務省の管轄にあり、実務の担い手となったのは特高警察の外事係だった。入管業務とはすなわち、治安の観点からの警察業務であったのだ。
 戦後、「出入国管理庁」(現在の出入国残留管理庁)が発足したが、そこにはかつての特高警察官のなかで公職追放を敵とみなし、監視対象とする、戦前の特高体質までもが引き継がれた。現在の入管の隠ぺい体質や強権的な姿勢は、こうした出自が影響しているのではないかと疑わざるを得ない。

(映画パンフレットより)

つまり、戦前の体質がそのまま戦後77年経った今でも引き継がれ、職員たちはその世界の中で仕事をしているのです。
もちろん彼らも現代人なわけで、私生活は我々と変わらない日常を送っていることでしょう。仕事に就くと戦前の世界にタイムスリップし、特高の人間に身も心も変身してしまうのです。
なので、戦前になかった「人権」はとうぜん収容所には無いわけですし、「差別」は厳然として存在しているのです。

彼らは自分の仕事についてどのように考え、どのように感じているのでしょうか? 彼らを糾弾するつもりはまったくありませんが、その心理、感情は知ってみたいと思うのです。

しかし、最近の日本を見回してみると、収容所だけではなく、様々な場所で同様の事象が発生しているように感じないでしょうか?
ヘイトスピーチは姿を隠すことなく公然と行われ、相模原の障害者施設では障害者差別者が殺戮を行い、国会では日本語が壊れていき、マスコミやジャーナリズムが正常に機能しているようには見えず、最近の日本はまるで戦前のようだと言う人もいます。
収容所の体質は、実はずーっと日本のあらゆる場所で戦後になっても生きのびていたとしか思えません。

話はちょっと変わりますが、最近AmazonPrimeに入り、海外の映画やドラマを今まで以上に観るようになりました。
そこでこんな作品を二つ観ました。
ひとつはデンマーク映画「特捜部Q カルテ64」、もうひとつはイギリスドラマ「埋もれる殺意 39年目の真実」というものです。
どちらも刑事が活躍するミステリードラマなのですが、登場人物に日本では、きっとあり得ない人物が登場します。

前者の「特捜部Q」はカールというデンマーク人の刑事が主人公ですが、その相棒がイスラム教徒の移民の刑事なのです。移民の刑事なんて日本じゃ考えられないと思いませんか。
後者の「埋もれた殺意」は女性警部のキャシーという人が主人公で、その部下で相棒の刑事がインド人のサニーという人です。インドはかつてイギリスの植民地でした。このドラマでは支配者側と被支配者側の人間がチームを組んで捜査にあたっているのです。
それぞれ国の歴史・事情は様々あるでしょうが、日本の場合、たとえば在日の人が刑事となって、日本人の刑事とバディを組んで捜査にあたる、そんなドラマ、考えられるでしょうか。

そもそも在日の人たちは、なぜ名前を日本名にして日本で生きていかなくちゃならないのでしょうか?
そのままで存在しちゃ、いけないのでしょうか?

それを許さない土壌が、いまだに日本にあるからじゃないでしょうか?
法律や制度、様々なたてつけがそうなっているということはあるでしょう。しかし、それ以前に心の問題として、まるで空気のように存在してしまっている差別意識が、自分にも分からない形で存在しているんじゃないでしょうか?

それはいったい何なのか?
なぜ、それを意識できない自分がいるのか?

この映画「牛久」を観て、「人権」「差別」について自分の事として考えていなかったなということに思い至りました。
この二つは今後もテーマとして、追ってみたいと思っています。


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