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9年後の初一時帰宅

コロナで一時帰宅その1(2020年5月記)  
                   大賀あや子(大熊町~~新潟県)
  3月下旬、コロナウイルス罹患し重症化した場合、誰にも会えずに死亡の可能性というのが怖い、死ぬ前に一度は大熊に帰りたいのだった!一時帰宅してこようか?!と思い始めた。
  それから行くと決まるまで大変だった。一度も一時帰宅していなかった私が今立ち入りしてよいのか?被曝を伴う同行は誰に頼めばよいか?信頼できる新潟の記者さんに取材してもらった方がよいか?「復興の様子」等にもコメント求められ悩ましくなるか?等々・・・。夫が5月に車買い替え予定だったと思い出し、放射性物質付着するのは古い車しかないとやっと決めた。
  測定器を貸してもらえる情報を求めていたら、須賀川のMさんが「サーベイメーターとホットスポットファインダー持って行けるよ」「今までツアー等は土足で踏み込むような気がして、どなたかに同行させてもらえる機会があればと思っていたの」と言ってくれて、なんと有難いとお願いすることに。「一時立ち入り申込み」電話では、コロナ対策のため車2台でと掛け合ったら約5分でOKが出た。
  当日、広野より北へ行くのは311以降初めて、懐かしい風景の中に、 楢葉町でも富岡町でもソーラーパネルの波や新しいアパートが続々と見えてびっくり。
  富岡IC近くのスクリーニング場で手続きし、そこから大熊町大川原地区(避難指示解除済み)へ通っていくと、手つかずで藪の中の家、除染・解体工事済みで更地やソーラー発電所になり庭木等わずかな痕跡のところ、ポツリポツリと住んでいる様子の家、元水田に役場や公営住宅そして「東電ヒルズ」社宅群が建っているところ、そして棚田が素敵だった坂の田んぼがこの春すでに耕われている様を見て、それぞれの方々は今どこでどうしているだろうと想うとぶわーっと涙が出てきた。その直後、ゴーグルの中で泣くと前が見えない運転できなくなる!と分かって、慌ててこらえた。
  野上地区(帰還困難区域)では「大熊町特定復興再生拠点・解体除染作業中」と、工事済みの更地と、残った家が混在。集落はガランとしている。田んぼは除染≒除草の事業済みなのか草木の茂みはなく、まだ何も建設されていないので、遠目には元通りのような、山笑い春の陽の照る情景。
  我が家に着くと、入口の八重桜が無事に立っていて、ちょうど花が咲いていた。この派手過ぎない色と花姿がどんなだったか、どこの名所よりもこの樹を見たかった願いが叶った。今後は折れた大枝から傷んでしまうかも知れないが。(*2011年3月ハイロアクションイベントの後の慰労会をこの桜の下でしよう、来てね!と言っていたのでした↓)

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  北側玄関前は11年秋にまだ砂利だけだったところに、もみじや紫陽花が茂り、家の壁には蔦が素敵に絡み始めていた。動植物に覆われていくのは仕方ないと11年春から家族で話していたこと。(↓写真は2020年と2011年の玄関付近)

玄関2011と2020

  南側の勝手口に回ると、下屋から17年秋にFさんがカギ閉めてきてくれた台所の戸がガラッと開いていた。台所から各部屋の少しずつの荷物が荒らされ放題荒らされている。浴室の戸を外そうとした痕まで。

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  この間に2度目の空き巣が入ったに違いない。原発事故発生者と通行制限緩和した施政者への怒りと同時に、立ち入りに通って片付け掃除をしたくなる人の気持ちも分かると実感してしまった。 (その2へ続く)
                            
コロナで一時帰宅その2(2020年6月)
  大熊町野上の自宅、鍵も戸も開けられていた勝手口から台所は特に荒らされ放題で、床には動物の糞(のカサカサ)が広がっていた。17年代理立ち入り時のFさんの写真にあった死骸のそれらしい骨や毛束も台所から居間にかけて散らばっていた。MさんOさんが頭骨を見つけてくれて暫し瞑目し祈った。
  居間ではフジの蔓が外から入りこんで、吹き抜けの2階の方へ伸びていた。さし込む陽光に若葉が輝き、まだ茂り過ぎない観葉植物くらいほどよい影を作っている。

200424野上の自宅リビング


  春に居間から見える庭と前の杉山はこんな感じなのか、家屋も母の実家から運んだ55年経つ木製建具もしっかりしてる、原発事故がなかったらここで暮らして10年目だったんだなあ、と想って佇んでいた。
  Mさん達は、この家の設計(川内の大塚しょうかんさん)や地元木材のこと、古い家具や行李のことも聞いて一緒に惜しんでくれた。

  戻ってその夜と翌日にMさんは泣いたり熟考してからfacebookに投稿してくれた。「だいぶ怒りを抑えて書いた!」と言っていたが、想いをにじませ、「覚えていてほしい」「声を上げなければ」と訴えていた。それは顔の広いMさんの友達やその先へ拡がり、いいね!が580件超になり、「驚きました」「大切なことを思い出しました」というようなコメントがたくさん入った。私はそんなに皆が驚くということに驚いたし、Mさんが外の視線をよく分かって書いてくれたから響いたのだ、私がありのままに書いたのではできなかったことをしてくれたのだと、感謝を新たにした。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10222642292863229&set=pb.1149982690.-2207520000..&type=3

  ところで庭にかなりの物が散らかっていたのもショックだった。「物置の戸の無いところから風で飛んだのだろうか!」「早くて数年後の避難指示解除と同時に帰還するという地区内のおじいさん達のところへゴミが飛んでしまうなら、除染解体作業の申込みをできるだけ先延ばしして放射能減衰を待つという考えは変えなければいけないかも!?」「被曝作業も、除染廃棄物の焼却=大気や灰への移染も、できるだけ増やしたくないのに」と話しながら、鎌もハサミも持ってこなかったので、近づいて確認はできなかった。

  それから大野スクリーニング場、オフサイトセンター(10年2月に申し入れしましたね!)跡地、原子力センターを経て、2010年に仮住まいしていた町図書館近くのアパートへ向かった。すると、2018年に解体同意書を提出したのでもう更地と思いきや、まさに屋根に作業員が上がっているところだった。近づくと、フレコンバッグが並び、ちょうど物品はほぼ搬出されたような、いくつかの小コンテナに「蛍光灯」「電池」等のラベルが見えるという状況だった。処分同意の出た物品はガラガラとフレコンバッグに詰められると(聞いたように)思っていたのが、それほど細かく分別しているとは!しかも、作業員の人たちは軽めのN95マスクとゴム手袋以外は普通の作業服姿で、もはや私より若そうな人が多いし、30代くらいの女性もいたのだ。
  皆、「住民の方ですか、近づいてもいいが重機に気をつけて」と丁寧な話しぶりだった。私の置いてきた軽自動車もまだあって、その傍にいた作業員の人と話したら、「廃車手続きされた車でも、私たちの仕事でないのでこのまま置いて、後で所轄が対応ですね」「たしかに車はかなりの線量」「この辺りはまだ高めですよね」と、ひと通り分かっていたのでややホッとした。
  それにしても、除染解体申込みを実行するかもと初めて思った直後に詳細な現状が見えて大ショック。6号線方面の元のパート勤務先等にまわろうと思っていたのは取り止めて帰路に就いた。ショック過ぎて、新潟の家で夫とゆっくり話すまで一度も泣かず、ぐるぐる考えていた。
(その3完 へ続く)

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鈴木 真理(2020年4月27日)

2011年3月11日 東日本大震災

夫婦の夢であった新居への引っ越しに心躍らせる
二人で夢を描きながら
材料を集め、大きな梁は二人で磨き
薪ストーブが設置され、キャットウォークを作り
自然と溶け合う素敵な家に仕上がった

原発まで8キロ程にある大熊町の家
原発事故が起きた事で住むことが出来ない
いつか解体され更地になる

原発事故から10年目
警戒区域にあった家に初めて帰る、あやちゃん
大熊町に入ると自宅へ続く道を何度も車を停車させた
防護のためのゴーグルに涙がたまり運転できなくなっていた

初めて大熊町の自宅へ帰る彼女に付き添い同行させて頂いた
彼女は自宅の入り口でじっと家を眺め
心を落ち着かせるためなのか
庭の桜の花の写真を撮り始めた

励ます言葉が浮かばなかった
抱きしめて一緒に泣きたかった
覚えていてほしい
声なき声が消されていく事を

命と経済
天秤にかけられた
様々な政策は命が尊重されることは無かった
経験している私たちは今の政府の対応に驚きはしない

原発事故はアンダーコントロールされていると世界に伝え復興五輪を掲げたオリンピックは開催に向け動き出し多くの人の想いは風評被害になるからと声に出す事が無くなっていった
原発事故は福島の問題として片づけられていく

原発事故による被害者だけでなく多くの被害者は
今、声を上げることが出来ない

覚えていてほしい
今、国が行っている政策は本当に国民の命を守る事を優先に行っているのか?
私達は試されてる
世界中の人々が当事者になった時
地球に住む私たちが本当の意味で世界と繋がりグローバルな世界を作っていく事が出来るか
試されてる
社会的弱者が切り捨てられる世界にならないよう
想いを伝えていかなければならない

声を上げなければいけない

共に乗り越えるために

大賀 あや子 (Ayako Oga)ちゃん
同行させて頂き感謝します。
沢山の大切な事を思い出しました
住民説明会で泣きながら訴える老夫婦
生きる意味が無いと自死された方々・・・
この時代に生きる私が出来ること
行動していきます。いいね581人、コメント34件、シェア406件
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一時帰宅記その3(20年7月記)
  初一時立ち入り帰宅から新潟の家に戻り、夫に大熊町で見てきたあれこれを話すと、行く前はクールだったのに、結構じっくり聴いて「う~ん、そうか~」等と反芻しているようだった。
  翌日から友人達との電話で、初立ち入り帰宅の報告と「実は、もう一度行って庭に散乱してしまった物を少しまとめる作業をしてこようかと思う」ということを話した。異口同音に「それは本当に辛い現状だったね」「だけどあやちゃんがまた行くのは賛成しない」と言われ重く受け止めたけれど、行かないでただ除染解体申込みになればずっと悩み続け繰り返し夢にも見続けるだろうということがかなり大きく心を占めていた。
  もし同行できる方が見つからなければ、この3月からの「立ち入り規制緩和」で野上地区(と下野上地区の一部)は申請無しで立ち入りできてしまうので一人で行こうかとも考え始めた(私の簡易線量計の数値は概ね正しいとわかったし)。いちおう夫に、3日後の休みの日は天気予報まずまずだけど一緒に行ってくれる?私の作業中は自由通行区間を車で見に行ったりしてもいいから、と尋ねてみたら意外に承知してくれた。
  今回は往きは距離の短い田村市都路経由、帰りは歩行者少ない国道6号沿いに洗車できるGSのある富岡町・広野町経由にした。国道288船引より東は311以来初めて、大熊町から広野町は夫は11年秋以来で、かつての思い出や変わったところについて語り合いながら進んだ。
  大野病院敷地内のスクリーニング場を経て、大野駅前商店街の裏のゲートから、立ち入り緩和していない帰還困難区域(ややこしい!)に入り、夫は新卒から311まで勤めていた職場の前では車から降りて暫し歩いたり撮影したりしていた。元同僚さんで避難後40歳で関連死してしまった方と、浪江で津波被災し遺体捜索が遅れてしまった方の新人時代も思い出された。

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  自宅に着き、時間の確認、夫の装備の念押しをして私は先に降りた。
  線量計のアラーム(前回はONにしていなかった)が線量密度を表わし、勝手口軒下でピ・ピ・ピ0.5μSv/時くらい、庭の土の上でピピピピピピピピヒ1.5~2μSv/時くらいだった。音の密度でリアルに分かるのは必要、新潟から毎年「視察」へ行くグループの方にその話題で話してみようと思った。
  窓から家の中に入り込み、庭でも大繁茂しているフジの蔓を鎌で切りながら進んでみると、庭で散らかっていた物は物置から飛散した訳ではなく、庭の物陰や木陰に置いていた苗ポット、苗カゴ、腐葉土を入れた肥料袋、ジョウロ等がある程度風で動き、まだ夏の草木が伸びる前でよく見えていたのだと分かった。9年放置されプラスチックの劣化・崩壊が近づいていそうだし、5月から11月頃は草が伸びて伸びて見えにくそう片付けにくそうだし、やはり今できるだけ拾い集めようと決めた。
  運べる物を物置へ運び、袋の中身の2009年2010年の腐葉土をあけ、物置では、金属やガラスをさっと分別し、軽く飛びやすいような物をフレコンバックに入れ、という作業はさほど大変ではない筈なのだけれど、ナイロンヤッケ・不織布の上下・ゴーグル・二重のマスク・二重の手袋という装備で、緊張や憤りも感じながら、足元悪くて転びそうになりながらやっていると、汗だくでフラフラに疲れた。

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  そのうち夫が戻ってきて、大荒れにされた室内を見に行った。私は急いでフレコンバック一つはいっぱいにして蓋を閉じ、家の中の撮影しておきたかったところへ行き、最後は夫に帰り時間を促されながら、土埃の付いた装備を厳重注意で脱いで袋に詰めてから車に乗り込んだ。

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(↑この写真は大熊町児童館)
 

  こんな二度めの一時帰宅をしてよかったのか、ちょっとあれこれ不足があった、とも思い、一時帰宅記その1と2を書いた後しばらく放置してしまって、新潟で畑しごとや活動に追われていたが、自分の内では以前よりも落ち着きと、「復興・解除方針」を見据える覚悟を増した気がしている。

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