言葉と政治と
言葉に宿る政治性
9月14日に配信された“愛された「開かずの踏切」? ランナーを阻み、首相を怒らせた「戸塚大踏切」最期の日々”(乗りものニュース)は、寄稿する段階において、いろいろ考えさせられた記事だった。
内容はリンク先から読んでいただくとして、記事に出てくる「吉田道路」とは一般的に言われている「ワンマン道路」のことを指す。
一般的というべきか、昔からそう言い伝えられてきたというべきか、あくまでも俗称ではあるのだが、この名称をどう扱うか? 記事を書いているときに、あれこれと思いを巡らせた。
もう10年以上前の話だが、神奈川県の行政関係者とワンマン道路について意見を交換したことがある。意見交換というと堅苦しくなってしまうが、要するに雑談。
戸塚駅の踏切は、長らく開かずの踏切として有名だった。踏切前に長い車列ができることは日常茶飯事で、それに業を煮やした吉田茂首相が踏切を通らなくてもいいバイパス道路の建設を指示した。
そうしたいきさつから、そのバイパスは吉田茂のあだ名でもある“ワンマン宰相”にちなみ、ワンマン道路と呼ばれるようになった。というのが一般的に流布している由来だ。
私と雑談していた神奈川県の行政関係者は「開かずの踏切は、地域全体の問題なんですよね。吉田首相がバイパスをつくるように指示したのは事実でしょうが、それは個人のためじゃなく、地域住民のため。実際、地域に大きな恩恵をもたらした。
だから住民は感謝こそすれ、批判する理由はない。なのに、ネガティブなイメージがつく”ワンマン”という言葉を道路の俗称に使うと思いますか?」と不満めいたことを口にした。少なからず、言外に当時の新聞やテレビが面白おかしく取り上げたからだとの批判が含まれていた。
そして、「だから、吉田道路と呼ぶ方が実態に合っているし、そう呼んでいる人もいます」と言葉をつないだ。
この行政関係者が言うように、ワンマン道路を吉田道路と呼ぶよう人たちがどのくらいいるのかは判然としない。また、実際に地域住民に吉田道路という呼称がどこまで浸透しているのかも不明だ。
言葉は立場でもあり、立場は言葉でもある
当時、この話を聞いていた私には、それを確かめる術もなかったし、調べる気にもならなかった。端的に言えば、ワンマン道路だろうが吉田道路だろうが、どちらでもよかった。単純に言えば、興味がなかった。
しかし、その主張には一理あるな、とは感じた。そういう考え方も心の片隅に置くべきだろう、と。
もちろん、これは行政関係者の意見だから官に寄った意見であることは否定できない。明らかに、官の側からの見方だろう。
ただ、その後に一度調べてみたことがあるのだが、確かに吉田道路と書かれた文書も目にした。
言葉は、時にポジションを大きく反映する。立場によって、解釈も変わる。この意見を鵜呑みにし、頑なにその意見に影響されてワンマン道路というフレーズを使わなくなることは許されない。行政関係者の意見を容れて、今後は吉田道路と呼ぼう!と広めよる気にもならない。
なぜなら、それは官側の見方のひとつであり、他者から見ればまた違う現実がある、からだ。
以前、健康保険料を支払った後で、金額が間違っていることに気づいた。担当者が間違えて保険料を多く算出していた。
そのため、区役所の窓口にまで足を運び、その旨を説明。担当職員も健康保険料を多く徴収していたことを理解したが、すぐに「誤納付については、翌月の保険料と相殺する」と説明した。
誤納付という言葉からは、保険料を払う側(=つまり私)が間違えて多く払ったというニュアンスを含んでいる。
本来、このケースでは過徴収という言葉を使うのが適切だろう。しかし、最後まで担当職員は過徴収という言葉を使わず、誤納付と言い続けた。つまり、言外に区役所は間違っていないと主張していたことになる。
吉田道路の方が適切と口にした行政関係者の言葉にも、ポジションが影響している部分はあるだろう。だから、それは言葉を使う側、つまり私がケースごとに判断していくしかない。
今回の記事では、特に政治色を帯びない文脈で使うことを想定した。だからワンマン道路ではなく、吉田道路を使う方が適切かもしれない。
吉田道路という言葉も、まったくの無色ではなく、捉える側にとって色のついた言葉かもしれない。それでも、ワンマン道路より、その色は薄いのではないか?そんな思いを抱えながら、原稿を書いた。
言葉を武器に
東京都の小池百合子知事は、2016年の選挙時から繰り返し追いかけてきた。彼女の政治的才覚で、誰よりも優れている点は「目立つ力」だと考えている。
小池都知事の目立つ力をフルに発揮させるためには、服装や化粧、髪型といった見た目や他者の目に自分がどう映っているか?といった演出が大きい。
これらは小手先の創意工夫ではあるのだが、残念ながら小池都知事の思惑は効果的に働き、都民には支持されている。
私は、そんな演出よりも政策をきちんとやってくれとの思いを抱いている。しかし、小池都知事を見ていると、言葉の使い方が抜群にうまいと感じる場面は何回もあった。
特に、私が唸ったのは、東京都が主催している“TOKYO縁結日”というイベントだった。これは、平たく言ってしまえば東京都による官製出会い系パーティーといえる。“TOKYO縁結日”は以前に取材し、THEPAGEでも書いている。
「働き方改革」“ライフ”が優先 ー 婚活支援に本気になった都の狙いとは”【2017年4月2日配信】
近年は結婚・出産といった、これまでだったら当たり前とされてきたライフイベントが当たり前じゃなくなりつつある。
結婚・出産に、行政が介入することはセンシティブな問題として受け止められることも多い。
一方、仕事一辺倒の生活ではなく、プライベートも充実した生活を重視するという風潮が強まっていることもある。
プライベートの充実といっても趣味や習い事、友達づきあいと多岐にわたるが、一緒に生活するパートナーづくりもそれに含められるだろう。
“TOKYO縁結日”は、そうしたパートナーを見つける場として立ち上げられたイベントなのだが、そのイベント会場であいさつに立った小池都知事は厚生労働省が掲げる”ワーク・ライフ・バランス”を否定していた。
「ライフ・ワーク・バランス」を掲げる小池百合子都知事
小池都知事は、独自の概念として“ライフ・ワーク・バランス”を主張した。これは、小池都知事の「ライフが優先」という考え方から語順を変えただけに過ぎない。
また、目立ちたがり屋でもある小池都知事のことだから、国とは違うことをやりたいという一心だったかもしれない。
それでも、ライフが優先という思想を前面的に打ち出したことに私は感嘆させられた。
語順を変えただけなので、小池都知事にとって地味な政策だったのだろう。しかし、派手さがないからこそ、それは逆に政策としての凄みを増し、それが重くのしかかる。
こうした地味な部分にも気を配っている。それが、実は行き届いていることを思わせた。
関東大震災が起きたとき、東京の再建を託された後藤新平はそれまで一般に流布していた復旧という言葉を使わなかった。
後藤は、元に戻す復旧ではなく、これを機会に新しい東京をつくることを理念に掲げた。そして、復興という言葉を生み出し、帝都復興院が立ち上がった。
いまや復興という言葉は当たり前のように使われている。後藤の提唱した理念は1世紀の時を経て、誰もが考え得る概念になった。
小池都知事が唱えるライフ・ワーク・バランスも時を経て当たり前の概念になるかもしれない。
こうした場面に遭遇すると、やはり政治は言葉なのだと実感させられる。
“脱”と”反”
そうした例を持ち出すまでもなく、実は、私たちは似た経験を何度もしている。
例えば、コロナワクチンをめぐる話。モデルナにしろファイザーにしろ、ワクチンを打ちたくても打てない体質の人はいる。
また、人によって副反応はさまざまだが、3日間も高熱が続くケースもある。3日も仕事を休めないという人は、ワクチンを打つ選択に躊躇するかもしれない。
仮にコロナに罹患すれば、3日間では済まない。それでも、ワクチンを打つよりも、かかるかどうかわからないコロナの方を選ぶかもしれない。
そんな苦渋の決断に追い込まれている人を、安易に反ワクチンと切り分けてしまうことはできない。すべての人が、反ワクチンの考えからワクチン接種を拒否しているわけではないのだ。
同様の話は、2011年の福島第一原発事故の際にも起きていた。政府は放射能への影響について「ただちに人体への影響はない」と言い続けた。
政府としては、そう言い続けるしかない。実際、放射能を浴びて即死するようなレベルではないのだし、病院に搬送されるわけでもない。
しかも、ただちにという言葉な曖昧さも含む。ただちに、とは? いったい、どのぐらいの時間なのか? 言葉から受け取れる感覚はは、受け取り手によって大きく変わる。
政府の曖昧な言葉と姿勢に疑問を持ち、東京から離れようと考えた人もいるだろう。実際に離れた人だっているはずだ。
仮に安全が確認されたとして、身の安全を考えた人たちを“放射脳”と嘲笑する気にはなれない。未知の恐怖に警戒するのは、自己防衛本能としては当然。それが空振りになったとしても、仕方がないことなのだ。
言葉のグラデーション
3.11以降、脱原発は政治のトレンドになった。厳密に言えば、原発は以前から政治課題として議論されてきた。
それが福島第一原発によって、リアルに考えさせられるさせるようになったというべきか。
与党も野党も、東日本大震災以降は“脱原発”や”卒原発”を口にした。しかし、個々の話を聞いてみると”脱原発”という言葉は、人によって濃淡がありすぎる。
「現在ある原発は使い続け、今後は新増設をしない」
「現在ある原発は停止させるが、場合によっては稼働をさせる」しない」
「現在ある原発は廃炉作業を進める」
ほかにも細かなバリエーションの違いはあるが、とにかく異なる原発へのスタンスなのに、すべて“脱原発”にくくられてしまう。
私たちの生活は、すべてを白黒で簡単に区別できない。身の回りに溢れている多くのモノ・コトは灰色。もっと言えば、濃淡のあるグラデーションで構成されている。
政治なんて社会・生活に大きく影響を与える分野においては、そう簡単に二分できる話ではない。しかし、小選挙区制という選挙システムが政治の二分論に与し、加速させた。
それが私たちからグラデーションの部分を奪った。そして、多様性は喪失。長い月日を経ることで、それも忘れて、二分する社会を、二分する意見を、自然に受け入れてしまっている。
罪深きワンフレーズポリティクス
小泉純一郎候補が「自民党をぶっ壊す」といったフレーズで華々しく自民党総裁選に勝利し、自民党総裁に就任したのは2001年だつた。
首相に就任後も、小泉節とも受け取れる答弁や発言をして、その人気は急上昇した。
小泉首相の話し方は、ワンフレーズポリティクスと呼ばれる。つまり、一言だけで何かを断言する話法。
それは長々しく話をするよりも、小難しい政治の話を簡潔に一言で表現し、聴衆はわかった気になってしまう。
2014都知事選は元首相の細川護煕候補と二人三脚で演説して回った
わかりやすいと言えばその通りだが、政治家の話がわかりやすいというのは、それはそれで問題である。
先にも述べたように、政治は白黒で判断できることは少ない。社会に存在するあらゆる現象は白と黒のグラデーションで形成されている。
政治は小難しいのではなく、私たちが生きる世界が複雑なのだ。だから、簡単に答えが出せるほど単純明快な話にはならない。
というか、そんな単純明快な話なら、とっくに政治家が解決していなければならない。
シンプルに伝える。これは初手として大事だろう。しかし、そこから先に踏み出すには、複雑な海へと泳ぎ出していくことになる。ワンフレーズポリティクスもはじめの一歩としては有効かもしれない。
繰り返すが、世界や社会は『週刊少年ジャンプ』のような正義と悪が明快ではない。自分とは相いれないモノやコトが溢れている。細かく説明しても、他人一回で伝わることの方がむしろ少ない。
政治は言葉だと書いてみたけれど、その言葉は何回も何回も繰り返さないと、相手には植えつけられない。刷り込まれない。伝わらない。
まして、政治は生きることそのものなのだから、簡単には相手を変えられない。変えることができない。
これは、政治に限った話ではないかもしれない。言葉を伝えること、言葉で伝えることは、実は私たちが思っている以上に、想像を絶するほど難しい行為なのかもしれない。
と書いてみたけれど、SNS全盛期の昨今は「いいね!」をどれほど集めるかが大きな指針になっているようにも思える。
同意を欲する社会へと向かうなら、一言で何かを表現する、表現した気になる方が向いているのかもしれない。
それは、長編小説や映画よりも思いを凝縮した詩や歌が心を打つような感じなのかもしれない。それを否定するわけではないが、短い文に込められた想いはときに想像力という翼を伴って作者の手から羽ばたいていく。
しかし、それは勝手な自己変換とエコチェンバー現象にすぎず、伝えるという観点から見れば、扇動とも言えなくもない。
ただただ自分と同じ意見を求めて、同じ考え方を求めて居心地のよさだけを追求しただけなのかもしれない。それは、詰まるところ伝わっていないし、伝えられていない。
自己矛盾ではあるのだが、メディア(ここで言うメディアとは、伝えることを企図した機関・媒体)は、その規模が大きくなればなるほど届けようとするターゲットが広がり、わかりやすくわかりやく加工していく。そのわかりやすさも、また曲者なのだ。
SNSが全盛の今は、そこに「短く」も追加された。短くすることで、さらに伝えることは困難になった。
そこに生まれた言語空間は、どんなものなのか?ワンフレーズポリティクスが帰結するところは、結局のところ為政者の政策うんぬんではなく、為政者の個性に行きつく。
「あの人は好きだから」「あの人は信じられるから」ならまだ許容範囲かもしれない。
「みんながいいって言うから」「テレビで見たことあるから」になると、もう自己判断が失われている。
複雑さを回避したワンフレーズポリティクスの先に見えるのは人気投票化した政治な気がしてならない。
そして、多くの人たちは複雑な社会忌避し、ひたすら単純化を求めて居心地のいい場所を探しても、意見や考え方が異なれば途端に排除されてしまう。実は恐ろしい世界でもある。
わかりやすい社会を体現化したワンフレーズポリティクスは、わりと危険なんだなあ。