【連載第3回 みんなの公園】上野公園をつくったお雇い外国人
日本でもっとも有名と言っても過言ではない上野公園は、どうやって誕生したのか?
開港場・横浜には幕末から多くの外国人が櫛比した。関内に多くの外国人が逗留し、その影響から舶来品が横浜から江戸へと流れ込む。
外国から入ってきたのは、珍しい「モノ」ばかりではなかった。牛食・洋装という文化も、開港による影響だった。
開国政策による影響は、都市空間をも左右した。外国人が居住するエリアは、居留地と呼ばれた。
江戸時代は海外との貿易拠点だった長崎など、外国人が足を踏み入れられるエリアは限定的だった。それでも、江戸には長崎商館長のカピタンが滞在しており、まったく外国人がいなかったわけではない。
それでも、外国人滞在者が少数であるがゆえに、特に滞在外国人に向けた政策を講じる必要はなかった。開国により、外国人政策を講じないわけにはいかなくなる。
一方、フランスやアメリカなどに使節団を派遣し、諸外国の先進技術や文化などを吸収しようと考えていた幕府や諸藩は、技術者や学者などを招聘して、指導的な立場として召し抱える。
そうした外国人技術者や学者はお雇い外国人と呼ばれ、江戸幕府崩壊後に誕生した明治新政府でも高給で召し抱えられた。
日本初の公園という栄誉に浴する上野公園も、お雇い外国人の力なしでは今のようなにぎわいはなかった。
戊辰戦争で激戦地になった逆賊の地
幕末、佐幕派として新政府に徹底抗戦した彰義隊は上野の山を最後の根城にした。
戊辰戦争後、明治新政府は上野の山に病院を建てる計画を策定していた。もともと、寛永寺の境内地でもあった上野の山は、江戸時代から花見の名所として知られていた。
すでに、江戸時代から多くの町人が上野に集まり、花見などを楽しんでいたことから、上野は制度化されていなかっただけで、町人の意識の中ではすでに公園だった。
しかし、明治新政府にとってみれば逆賊の地である。そんな場所に、誰もが自由に集えるようにするのは危険だ。
病院建設なら広く社会にも役立つ施設であるから、自由に集える空間を葬り去る理由としても都合がいい。上野の山の病院建設には、そんな意図も内包されていた。
上野公園内にある国立西洋美術館はル・コルビュジェ作品で、世界遺産
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