電気界の巨人 もうひとりの渋沢

 2021年の1年間に放送されるNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は、日本資本主義の父とも形容される渋沢栄一だ。

 大河ドラマの主人公というだけあって、2020年末から渋沢に関連する書籍・雑誌は多く出版されている。実は、私も「青天を衝け」に便乗して、ネットニュースなどに記事を執筆する際に渋沢関連の話をこっそりと入れていた。

 例えば、東洋経済オンラインだと

10月18日配信

“「何もない」大崎は鉄道を支えた工業の街だった”

11月26日配信

“駅名読める?京阪の要衝「中書島」の波乱万丈”

 新型コロナウイルスの影響もあり、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」は撮影が一時的に中断。その余波から放送日は2021年にも及ぶことになる。それと同時に、「青天を衝け」の放送開始日も2月からにスライドした。

 渋沢栄一の本を書きませんか?という依頼を受けて、私は9月から執筆作業に没頭していた。

 単行本には力を尽くしたと思っているが、それでも執筆作業中とはいえ生活を渋沢一色にすることはできない。口に糊するためには、単行本の執筆と並行して普段の取材をつづけ、原稿も書いていかなければならない。日々の収入を閉ざすわけにはいかないのだ。

 単行本は執筆から出版までにも時間を要するが、出版されてから口座に入金されるまでにも半年ほどかかる。執筆作業のスタート時から起算すれば1年近くを費やしている計算になる。その間、無収入では生きることはできない。

 そんな事情もあって、単行本の取材や資料収集で得ながらも、単行本に収録できなそうな話をうまく構成してネットニュースの記事にする。

 こうして、日々の生活費を生み出してきたわけだが、なかにはネットニュースの記事になっていない話もある。それが、渋沢の甥であり、逓信省官僚から名古屋帝国府大学の初代総長に就任した渋沢元治の話だった。

 2021年に上梓する拙著『渋沢栄一と鉄道』は、タイトルからもわかるように渋沢栄一と鉄道をテーマの中心に据えている。もちろん、渋沢の周囲には多くの政治家・実業家・技術者などがいて、それらの登場人物の話に触れなければ渋沢の功績を語ることができない場合もある。

 例えば、渋沢の前半生で重要になるパリ滞在では、徳川昭武の存在抜きにして渋沢の来歴を語ることはできない。同様に、帰国してからは井上馨の存在が渋沢の人生を大きく左右した。

 実業家としての道を歩み出してからは、多くの財界人と交流を結び、後半生は社会事業家として福祉・医療・教育といった分野の面々も登場する。

 紙幅の事情もあるが、渋沢とも鉄道とも関係の薄い元治に触れてしまうと、話が横道に逸れすぎてしまい、収拾がつかなくなる。ただでさえ、渋沢が関係した事業は多岐にわたるから、それは避けたい。

 そうしたことから元治には触れずじまいになってしまったが、元治は電気界の渋沢とも呼ばれる大物。

 その功績は栄一に劣らない。電気学会は渋沢元治を由来とする渋沢賞を創設している。

 大河ドラマの主人公、そして新一万円札の顔。渋沢栄一にまつわるトピックスは枚挙にいとまがないが、元治も栄一に劣らない活躍で電気界に君臨した。

箱根と渋沢を結ぶ点と線

 2021年1月2日に配信された東洋経済オンライン“箱根駅伝の名脇役、登山電車が育てた地「強羅」”では、渋沢栄一が箱根開発に乗り出した軌跡を紹介した。

 渋沢の箱根進出は、もともと養羊から始まる。こうして渋沢と箱根は、明治半ばから関係が築かれていった。渋沢が養毛を諦め、牛乳生産へと事業を転換した理由は、明治新政府の欧化政策とも無縁ではない。

 幕末に鎖国が解かれると、諸外国が六本木・青山といった江戸城から近くもなく遠くもない地に在外公館を置いた。こうして、幕末の江戸には少なからず外国人が生活するようになった。

 西洋人と日本人、生活様式の違いは多々ある。畳の上で寝食を同じくする日本人と、寝食を部屋ごと分離していた西洋人。こうした違いの、もっとも大きな部分が食事だった。

 それまでの日本にも、肉食の文化はあった。しかし、いまでは一般的な牛を食べる文化はなく、これらは西洋人によって浸透していく。同じく、牛乳も鎖国を解いたことで広がったライフスタイルだった。

 在外公館の外国人たちが「牛乳を飲みたい」と懇願した。江戸幕府から明治新政府へと政権交代を果たしたばかりの頃、こうした外国人のリクエストは受け入れられやすい環境にあった。

 なぜなら、明治新政府は殖産興業と富国強兵を2大スローガンとして掲げ、これらを達成するためには西洋化、つまり文明開化を果たさなければならないと考えていたからだ。

 西洋式の食事を取り入れ、それを広めていく。そのためにも、西洋人たちがリクエストした食事を日本でも生産できるようにしなければならない。こうして牛乳生産が進められた。

 牛乳生産は、明治新政府にとっても都合のいい新産業でもあった。幕府や各藩が抱えていた士族は、明治新政府の発足によって失業した。彼らを食わせる余裕は、明治新政府にない。かれらの面倒を見たのが、旧幕臣の榎本武揚だった。

 新政府の意向もあり、榎本は牛乳生産を開始。北辰社と名づけられた牧場が飯田橋駅の近くに開設された。現在は一等地と言っても差し支えがない飯田橋だが、当時は江戸の端にあたる。そのため、広大な牧場地を確保することは難しくなかった。

 また、神田などの町人地に近いから、鮮度が命の牛乳を早く届けることもできる。飯田橋は牛乳生産にうってつけの場所だった。

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飯田橋駅の近くにある北辰社牧場跡 

 榎本が開設した北辰社は旧士族の雇用という役割も果たした。また、牛乳を各家庭へと届ける配達業務も旧士族が担った。これらは明治までは存在しないビジネスだから、農家などとも競合しない。だからハレーションが起きることもない。すべてにおいて、好都合だった。

 飯田橋に開設された北辰社だったが、明治半に鉄道が延び、急速に都市化して言った。こうなると、飯田橋付近は牧場地として適さなくなる。しかも、牛乳の需要は増え続ける。

 この頃、渋沢は箱根の仙石原に牧場を開設。耕牧舎と名付けられた。当初、渋沢は紡績業の振興に力を入れており、仙石原に開設した耕牧舎は養毛を目的としていた。しかし、気候や土壌・水などが養毛に適さず、耕牧舎は行き詰まる。

 そこで、牛乳生産へと方針転換。耕牧舎の牛乳は、たちまち美味しいと評判になった。しかし、いかんせん箱根は遠すぎた。牛乳は鮮度が命。一大消費地である東京から遠い箱根では、販路を開拓することは難しかった。こうして耕牧舎は牧場経営から撤退してしまう。

 耕牧舎を畳んだ後、渋沢は箱根の旅館業を振興するために箱根温泉供給という会社を立ち上げる。同社は、後に小田急と箱根の覇権を争う堤康次郎も協力している。

箱根と元治

 日本屈指の観光地として知られる神奈川県の箱根は、急峻な山々がそびえる温泉地だが、同地が観光客でにぎわうのは江戸時代後期からとされている。

 それまでも箱根は名湯の誉れ高き温泉地だったが、なにしろ公共交通機関がない。そんな時代だったから、箱根まで足を運べる旅行者は少なかった。それが秘湯と呼ばれるゆえんにもなつていた。

 箱根を大きく変えるのが、小田原馬車鉄道の開通だつた。小田原馬車鉄道は国府津−小田原−湯本を結んだ。現在、国府津は東海道本線や御殿場線などが停車するものの、新幹線や小田急線、箱根登山鉄道なども乗り入れる小田原駅と比べるまでもなく、にぎわいは乏しい。

 そんな国府津だったが、東海道本線が開業したばかりの頃は違った。当時、トンネル掘削技術がないので東海道本線は国府津駅から御殿場駅を経由して沼津駅へと抜けるルートがとられた。

 中世から城下町として栄えた小田原、温泉地として絶大な栄華を誇った熱海は東海道本線のルートからはずれる。そうした事情もあり、小田原・熱海は衰退の兆しを見せる。

 一方、国府津駅は箱根の玄関口となり、にぎわうようになる。国府津駅から小田原馬車鉄道に乗れば、ゆうゆうと湯本まで着く。また、小田原馬車鉄道が電化すると、さらにアクセスは至便になった。

 小田原馬車鉄道から小田原電車鉄道へと社名を改めると同時に、動力を馬車から電車へと変更しことも相まって小田原電気鉄道は急峻な山道を上り下りすることが可能になる。箱根の山の、さらに上を目指して線路を建設した。

 この際、小田原電気鉄道の電車は、かなりの馬力を必要とした。高馬力を出力するには、高性能のモーターが必要になる。学生だった渋沢元治が実習も兼ねて、小田原馬車鉄道の電化と電車に搭載するモーターの手伝いをしている。

 電化を果たした小田原馬車鉄道は、1900年に小田原電気鉄道へ改称。電化を果たしたことで、電気事業と鉄道事業を兼営するようになる。

 しかし、当時は民間の電力会社が勢力拡大争いをしており、日本電力が小田原電気鉄道の電力事業を狙っていた。日本電力は小田原電気鉄道を吸収合併し、鉄道部門は不要とされて切り離された。こうして、1928年には小田原駅−強羅駅間が箱根登山鉄道として再出発することになる。

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箱根の足として活躍する箱根登山鉄道

「電気の渋沢」の誕生 

 小田原馬車鉄道の電化に貢献した渋沢元治は、その後に官界へと進む。民間の力を信じ、民間企業を次々と立ち上げていった渋沢栄一は元治の逓信省入りを反対したようだが、栄一も大隈重信に口説き落とされて短いながらも役所勤めを経験している。

 逓信省に入省した元治は、類稀なる力を発揮していく。当時は電気が一部のエリアにしか配電されておらず、ゆえに電化は喫緊の課題でもあった。そのため、発電所・送電線・変電所といった電気インフラは言うまでもなく、電化製品の普及なども国家をあげて奨励された。

 1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会は電気が次世代のエネルギーと果敢に喧伝され、会場はイルミネーションで大々的に飾り付けられた。こうして少しずつ電化は進められていくが、それも工場やオフィスといった電気を大量に必要とする場に限定される。

 家庭の電化は、戦後から始まることになる。電気を家庭で使用するには各家庭へ供給するための送電線・電柱などの公的部分の整備も欠かせないが、家の中にも配線が必要になる。

 家電製品がないのだから、そもそも配線やコンセントは必要ない。配線やコンセントがないから電化製品がない。タマゴが先か、ニワトリが先かといった問答になるが、とにかく家に配線やコンセントを整備するだけでも莫大な費用になる。

 そのうえ、庶民にとって家電製品は高嶺の花だから、とにかく電化は進まなかった。家庭内の電化で、最初に取り組まれたのは電灯・電球、つまり「あかり」だった。

 電球・電灯の普及率が向上することで、夜間でも活動ができるようになり、ライフスタイルも大幅に変わっていった。

 元治は、関東大震災の復興にも官僚として尽力。翌年、退官して電気学会の会長に就任した。それまでにも電気の普及などに務めていた元治だが、自他共に認める“電気の渋沢”が誕生したことになる。

 それまで東京帝国大学で教鞭をとっていた電気の渋沢は、1929年に工学部の学部長に就任。そして、帝国大学としては最後となる名古屋帝国大学の初代総長に抜擢される。

 いまや名古屋の総合大学として権勢を誇る名古屋大学だが、帝国大学としては昭和生まれという最後発。台北や京城よりも遅い開学だった。しかも、開学当初は総合大学ですらなかった。

 医科の単科大学として発足した名古屋帝国大学だが、元治が初代総長として招聘されたことから考慮しても、最初から理学部もしくは工学部の設置は決まっていたのだろう。翌年、理工学部が開学。戦後、文系の学部も開設されて堂々たる総合大学になった。


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