【書籍・資料・文献】『ミルクと日本人(中公新書)武田尚子

朝食に欠かせなくなった牛乳

 毎日、牛乳を飲む子供は少なくない。なぜなら、給食で必ずと言っていいほど牛乳が出されるからだ。国籍を問わず、牛乳は食生活に欠かせないモノになっている。

 それは牛乳が栄養を豊富に含んでいるからだが、幕末までの日本では牛乳はさほど飲まれていなかった。牛乳を飲用する習慣は、開国によって外国人からもたらされた。

 当時、牛乳を誰よりも欲したのは、イギリス公使のハリー・パークスだとも言われている。産業革命を成し遂げたイギリスは、開国で技術立国を志向する日本にとって雲の上のような存在。

 日本は教えを乞う立場ゆえに、公使の無茶ぶりにもそれなりに応えなければならなかったと推察される。ハリー・パークス一人の牛乳ぐらいなら、なんとか入手できるかもしれない。しかし、次第に日本に滞在する外国人が増える。

 当然ながら、牛乳のリクエストは高まる。そうなると、牛乳の入手は困難になった。牛乳を生産する体制が確立していないのだから、牛乳の供給量が追いつかないのは仕方がない。

 いや、供給量が不足しているというよりも、手元まで届ける流通体制が遅れていたという方が正確かもしれない。なにせ、明治初期の冷蔵技術は未発達。生鮮品である牛乳は、供給までは時間との戦いだった。牧場で搾乳された牛乳は、すぐに各家庭まで運ばなければならない。

 各家庭といっても、当時は牛乳を習慣的に飲む人々は在外公館に勤務する高官ばかり。家庭に届けていたというよりも、オフィスに届けていたとする方が正確だろうか。

榎本武揚が率先して牛乳ビジネスに参入 

 搾乳から戸別宅配までを手掛ける。しかも鮮度が保たれているうちに――ここに目を着けたのが、新政府軍に最後まで抵抗を続けた幕府軍の総大将・榎本武揚だった。

 榎本は旧幕府軍の首脳でありながら、その才覚は新政府軍にも轟いていた。五稜郭の戦いで投降した榎本は、一時的に罪人として処遇される。

 しかし、新政府の首脳は維新後の体制づくりに頭を悩ませていた。これまで幕府打倒ということで、武力や戦術家が重用されたが、新しい国づくりには別の才能が必要になる。

 また、諸外国に負けない軍隊をつくるには海外事情に詳しく、旧習に捉われない新たな発想を持つ頭脳が必要になる。明治新政府は、逆臣・榎本を重用することを考えた。新政府は有能な士をどんどん起用した。

 他方、旧幕臣である榎本は、旧士族にとって総大将でもあり、それだけに自分だけが新政府軍の禄を食むことは受け入れがたい話だった。

 新政府に召し抱えられることになった榎本は、なんとかして旧士族の救済を考えた。江戸時代のようにはいかなくても、彼らの体面を保てるような活路はないのか?そのひとつが、誰も参入していない牛乳の生産と販売だった。

中年ニート・旧士族を救済するための牛乳ビジネス

 江戸幕府に召し抱えられていた武士たちは、明治新政府の発足とともに特権を喪失。仕事を失い、禄もなくなった。明治新政府の発足は、武士の大量失業という事態を発生させた。

 旧士族といえば聞こえはいいが、身分社会で成り立っていた江戸時代の武士はほぼ世襲で成り立っていた。つまり、明治新政府の発足は、失業士族という中年ニートを大量に生んだ。

 農作業もできず、職人のようなものづくりのスキルもない。それまで武士として威張り散らしてきた手前、旧町人たちとうまくコミュニケーションも取れない。そんな旧士族たちが、食える仕事を見つけられるわけがなかった。

 蝦夷共和国の総裁だった榎本は、北海道に縁がある。それゆえに、未開の地・北海道で農業に従事するなら、旧士族たちも体面を気にすることがないだろうという配慮をした。

 農業だって農業生産の知識が必要になる。素人の旧士族たちが、簡単んに参入できる分野ではない。高度化された現在なら、農家からお断りされるだろう。

 機械化されていない当時の農業は、とにかく人手を必要とした。そのために、旧士族の農業参入は競合することがなく特段のハレーションも起きなかった。

 士族たちの雇い主だった、尾張藩徳川家徳島藩蜂須賀家加賀藩前田家などは明治維新後も大名華族として新政府でも活躍した。その一方で北海道に農場を開設し、旧士族たちが農耕に汗する機会を提供している。

 大名華族たちが開いた北海道の農地は、寒冷地ゆえにそれまでの農業ノウハウが通じず、苦戦を強いられる。また、未開の地での農業のために規模は大きできない。ゆえに大量の中年ニート武士を農業従事者に転換することは叶わない。

 そうした中、東京でも就ける仕事として榎本は牛乳に着目した。これまで牛乳生産・販売という仕事はなく、それゆえに旧士族がそれらに大量に従事しても割を食う人は出ない。榎本は飯田橋に北辰社という牧場を開設。牛乳に生産に乗り出した。

明治の東京は酪農王国

 先述したように、牛乳は搾乳から間髪入れずに届ける必要があった。そのため、榎本は牛乳生産を手掛ける北辰社だけではなく、牛乳販売業にも進出。それを稼業にするよう、旧士族たちに促した。

 こうして、現在の千代田区一帯には牧場が広がり、牛乳販売店が並ぶようになる。明治期の東京は、酪農王国でもあった。

 牛乳販売は基本的に旧士族が個人事業的に営業しており、ここでも武士の商法のような客を客と思わない態度で接客・営業する者もおり、そうした牛乳販売店は早々に廃業に追い込まれた。

ここから先は

1,394字

¥ 100

サポートしていただいた浄財は、記事の充実のために活用させていただきます。よろしくお願いいたします