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気がつけば茶色くなっている

カメラと写真と出版をめぐる環境の変化から

 思うところがあって、不定期ではあるがツイッターに自作した料理などをアップしている。まったく宣伝もしていないが、インスタには淡々と料理写真だけをあげ続けている。

 その理由は、手軽にスマホで写真が撮れるのだから、少しぐらいは料理写真の練習をしておこうと思ったからだ。

 私の取材範囲で、料理を撮ることは少ない。しかし、旅と絡むと料理写真を撮る機会は増えてくる。本邦において、旅に食事と温泉は欠かせない。

 温泉はまだしも、これまでは、料理写真は専業のカメラマンが撮った写真でなければ誌面に使えないというのが業界の共通認識だった。

 それほど、プロの料理カメラマンの腕は凄い。それは、今も変わっていない。変わったのは、わりと写真が身近になり、写真を見る目が甘くなった、ということだ。

 ネット時代になってこれまでの概念は大きく変わった。ネット記事でも料理写真は重要であることは変わりはないが、そもそも前提として紙(雑誌)とネットでは求められる写真サイズが違う。

 それは読者が目にするサイズそのものも紙の雑誌とネットでは大きく異なるのだが、そもそもネットに掲載されている写真と同じサイズを紙で表現するには5倍の大きさが必要になるといわれている。

 少し専門的な説明をすると、デジタルカメラの写真(=JPEG画像)は通常モードだと72dpiで記録される。

 dpiとはドットパーインチの略で、72dpiは1インチのなかに72のドットが詰まっていると解釈してもらえばわかりやすいだろうか。

 紙に写真を表現する際、おおよそ350dpiないと読者の視覚に耐えられない。つまり、デジタルカメラで撮影された写真は5分の1にまで凝縮しないと、画像の荒さが際立ってしまう。

 携帯電話のカメラ機能やメモリーが未熟だった時代は、画素数も少なかった。なので、スマホで撮影された写真を紙に乗せることは困難だった。

 しかし、スマホの進化はとめどなく、画素数も2000万画素を超えている。誌面に使う大きさにもよるが、スマホで撮る写真でも問題ないレベルになった。

 もちろん、カメラのよしあしは画素数だけでは比べられない。スマホが進化したように、一眼レフも進化した。スマホが一眼レフに及ばない部分はいまだ多々ある。

 それでも最近は媒体が紙からネットへと移行し、もはや紙を意識して写真を撮影する必要はほとんどない。ネット記事において、一眼はオーバースペックになってしまったと言わざるを得ない。

 さらに、最近は加工ソフトの技術も進化した。カメラの腕が稚拙でも、イジる技術が傑出していれば、何とかなってしまう。ネット記事なら、画像は小さくて構わないから、ますますカメラの腕は必要なくなる。

 そんなカメラ・写真・媒体をめぐる環境が、ここ数年で目まぐるしく変化した。そうした変化が、写真のあり方を大きく変えたことは言うまでもない。

 ソフトの加工技術が進化したとはいえ、撮影技術が必要なくなったのか?その答えはNOだ。同じ被写体でも、時代によって写真の撮り方は大きく変わる。その時代に合わせた撮り方は必要になるだろう。

 また、人物を撮るのか?料理を撮るのか?動物を撮るのか?美術品を撮るのか?といった被写体でも撮り方は変わってくるし、同じ料理でも媒体によって求められる撮り方は変わる。

 撮影環境によっても変わるだろう。同じカレーを撮影するにしても店舗で撮影するのと自宅で撮影するのではコンディションが変わってしまう。

 もっと言ってしまえば、自宅の食器に盛られた料理と、曲がりなりにも商売として料理店を営んでいるプロの人たちが盛る食器では写真の映え方が段違いに違う。

料理は根本的に茶色

 前置きが長くなってしまったが、自作料理の写真を撮るという話に戻る。

 写真を試行錯誤しながら撮り続けて気づいたのだが、自室と商業店舗で料理を撮るのは環境が大きく異なるということだった。

 商業店舗はテーブル・食器類・壁・天井・窓など、それなりに飾り付けられている。自室はあくまでも生活空間だから、商業空間と比べて装飾性が格段に劣る。当然ながら、それは料理写真にも反映される。

 そして、料理写真を撮り続けて気づいたのが、パセリの重要性だった。ファミレスやファーストフード店などでピザやポテトを頼むと、必ずと言っていいほどパセリが添えられてくる。

 料理に添えられたパセリを食べる客は少ない。店側も食べることを前提に添えているわけではない。経費削減が激しい昨今の飲食業界において、パセリをなくしてしまう店が出てきても不思議ではないのだが、そうした店は出てこない。

 パセリというのは、あくまでも比喩。パセリじゃなく、料理に添えられながら食べることに支障をきたさないモノ。

 弁当ならバランーー弁当の仕切りに使う、緑色のやつのように食べるわけではないから、本来なら真っ先に経費削減のターゲットになりそうだが、意外とならない。

 なぜか? もちろん、バランが大した費用負担になっていないということはあるだろう。しかし、理由はそれだけではないはずだ。

 料理写真を撮り続けていると、写真の多くが茶色に染まっている。つまり、添えられたパセリは彩りを意識したものであり、このパセリによって全体的な茶色を中和する役割を果たしている。

 そして、それが無意識に食べる人の食欲を増進させているのだ、と。

茶色からの脱却

 それでは、どうしたら自宅でつくる料理を茶色ではない色にできるのか? その答えは、茶色の食べ物を使わないことだが、それは無理な話だろう。

 茶色くない食材を使用しても、焼いたり煮たり調理しているうちに料理はどんどん茶色くなってくる。

自作したスパイスカレー(作例01)

 作例01は自作したスパイスカレーの写真で。この写真を見ると食べ物そのものは茶色が中心に彩られている。

 そのため食器は薄緑を使用し、ランチョンマットは青を基調にしたモノを使ってみた。これで、茶色からの脱却を意図した。

自作したサラダうどん(作例02)

 作例02は、食器類やランチョンマットなどで小細工せずに、食材で茶色からの脱却を目指した自作のサラダうどん。
 
 底が深い椀を使ってしまったので、サラダの下にある麺がいっさい見えない。あと、椀の縁も色が剥げていて、どことなくシミったれた感じが漂う。

自作した牛肉のパスタ(作例03)

 作例03は撮影環境も申し分ないが、やはり料理全体がどことなく茶色い。また、パスタ麺が皿からはみ出していたりして見苦しい部分がある。

 テレビ番組などではフードコーディネーターがつくこともあるが、そうした縁の下の力持ちの素晴らしさを痛感させられる。

自作した豚肉とほうれん草の甘辛パスタ(作例04)

 作例04は料理全体の写真ではなく、料理をアップにして撮影してみた写真。ほうれん草の緑があるので、皿や什器で誤魔化さなくても、なんとか彩りが保たれている。

 こうして料理写真を並べてみると、料理写真は料理単体だけではなく、皿・椀・箸・箸置き・ランチョンマット・テーブルなどが渾然一体となっていることがわかつてきた。

 さらに撮る側もカメラ・ライティングなどの技術を持ち寄り、調理を提供する側と写真を撮る側が力を合わせて創りあげる総合芸術といえるのかもしれない。

歴然だった商業空間と生活空間の差

 お見苦しい自作した料理写真を披露したので、プロの料理写真も載せておきたい。料理の見栄えもさることながら、料理を食べる空間から食器類、そしてテーブルや箸などの什器類にいたるまで、生活空間のそれとは違った輝きと空気を放っている。

成田山のうなぎやで食べた鰻丼(作例05)

 作例05は、外食先で食べた鰻丼定食。蒲焼と米だけのシンプルな鰻丼だから、当然ながら食べ物は茶色が中心。トレーも茶系で、テーブルも木目を生かした茶系。

 それだけを見れば茶色いのだが、商業店舗だけあって箸袋や漬物、漬物の小皿がきちんとアクセントとして働いている。また、自宅で使っている食器類とは違い、どことなく品を漂わせてもいる。それが写真からも滲み出ている。

世田谷区のレストランで食べたコース料理の前菜(作例06)

 作例06は、前菜のサラダだから、緑黄色野菜を多用している。そのため、見た目にも緑が多く映っているが、そのほかにも卵の黄色とトマトの赤、そして皿の青が絶妙なバランスで配色されている。

 このレストランは、数年に一回ぐらいのペースでしか足を運ばないのだが、味もさることながら、見た目にも気を遣っている点が素晴らしい。

焼き野菜(作例07)

 作例07は、06と同じレストランでコース料理に出てきた焼き野菜。野菜の色も鮮やかだが、野菜の並べ方にも配慮が行き届いている。
 
 皿の目に映える漆色も素晴らしい。料理は目で楽しむを実感させる。

 こうして、いろいろな料理を撮り、そして並べてみると、やはり料理写真は奥深いとの印象を強くさせる。

 私は、首相官邸にカメラマンとして通い始めて10年以上の経験を有する。日本国憲法が施行されて以降、首相官邸にフリーランスのカメラマンは私一人しか出入りしていない。

 その一方で、料理写真は、とても胸を張れるレベルではない。同じカメラでも、まったく異なる世界がそこにはある。

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