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生は私が存在して初めて真実となる

通常、人類とは理性はない。
つまり、己自身にたいして律するということがないのである。

人は自らの思考を見ることはない。
人間とは理性ある生き物だろうか?

これにたいして、私の言えることは否と答えるであろう。
人は、自らのことを知らないからである。

アーリオーンがなぜ、対象を見ることで始まるといった点。
これは、客観的に見るということだ。

客観的に見るということはどういうことであろうか?

それは、それは語り手としての
考えを述べた上で、自己の考え、
つまり、この主観を通して、
客観的にものごとを考えると誤解して考えるふちがあると、私は思う。

そこには、主観が交わっている。
主観とは、自己だけの考えのことを言っている。

では、客観的とはどういうことだ。

これは、第三者としての考えのことだ。
対象を見ると、自己の考えを述べる上での観的に表現するからだ。

では、客観も主観に内包された思考である上、
たんなる認識上の定義しかほかならないと思われる。

クリムシュナリティは言った。
自己と対象の自己想起を述べたのが、
客観的に見る上で、自らの思考を洞察することにつながるのであろう。

親の前にしての私か?
恋人の前にしての私か?

私を認識をしていたら、私が存在していないことに気が付く。

”生は私が存在して初めて真実となる”

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