NEWPEACE Inc.を卒業しました! これからのこと
2018年08月末をもって、NEWPEACE Inc.を退職しました。
立ち上げから足掛け3年半、多くの皆様にお世話になりまして本当にありがとうございました!
一般的には大学生の年齢に当たる、19歳から23歳までを過ごしたNEWPEACEの思い出を振り返りつつ、なぜこのタイミングで退職することに決めたのか、これから何をするのかお伝えします!
高木新平さんとの出会い、NEWPEACEの始まり
NEWPEACEの代表の高木新平さんとは、2014年11月に起こった親友の炎上事件をきっかけに出会いました。
その日は挨拶程度にしか話す時間がなかったと記憶しています。
後日改めて、ごはんを食べに行こうとメッセージをもらって、渋谷の宮益坂近くの居酒屋で話したとき、今度「思想をカタチにする集団」を立ち上げるので一緒にやらないかと誘われました。
既にジョインすることになっていたメンバーは、元カヤックでイキモノという会社をやっていた、デザイナーのYOPPYさんとエンジニアのゆうくんというコンビでした。
2人とは当時仕事していたKAI-YOUのオフィス移転パーティーで会ったことがあり、そのメンバーでなら面白いことができそうなイメージが湧きました。
その後KAI-YOUを退職し、2015年04月からNEWPEACEを立ち上げました。
挫折と成長の連続
自分は、高校卒業後、大学に進学せず仕事を始めました。
社会人1年目でめちゃくちゃ努力して、ある程度仕事も出来るようになったので、業界が変わってもそこそこパフォーマンスを発揮出来るだろうと高を括っていましたが甘かった。
NEWPEACEが始まってからは挫折の連続でした。
最初の仕事はリクルートライフスタイルのエンジニア採用のコンサルティング&クリエイティブだったのですが、自分の思う企画書を持って行ったらボロボロ。
広告代理店やコンサルタントの企画書がまるでわかっていなくて、最初からWebサイトワイヤーフレームみたいなのを書いていたんですが、まずは課題整理とか上位レイヤーから順を追って作っていくというセオリーを学びました。
その後の仕事も大体そんな感じで、挫折しては、その度失敗を学びにして成長していきました。
幸いにも若かったので、吸収力だけは異常に高くて、今から考えてもとんでもないスピードで成長していたと思います。
北参道の初期オフィス
後輩 おのなお
2015年の夏も終わる頃に、なつめぐさんというちょっと変な人から紹介されておのなおというもっと変な人が入社してきました。
入社当時18歳。
当時20歳だった自分は、年下はおろか同年代ですら仕事で会うことがほとんどないのに、2歳も年下が入ってきて危機感を感じましたが杞憂でした。
一緒にクラウド連携するスマート募金箱を作るために(結局完成しなかった)Arduinoと電子パーツを買いに秋葉原まで何往復もしたりしてとにかく楽しかった。
それでいいのかはさておき、この頃はずっと続く夏休みのようだったのを覚えています。おのなおがいたときは特に(笑)。
その仕事は世界を変えるか
2つ目に担当した大きな仕事に、DeNAのオートモーティブ事業の中心だった「ロボットタクシー」という事業のコンサルティング&クリエイティブがありました。
無人タクシーが社会にとってどういう存在なのかは、社内でも明確になっていませんでした。
自動運転という技術自体インパクトがあるので、東京でプロモーションするなど様々な案が錯綜していたんです。
その中で、本質的価値は「移動を楽にすること」だと定義し、電車やバスが消滅していく過疎地域を舞台に、コミュニケーションを展開することにしました。
700万人ともいわれる「移動弱者」を救う存在としての「ロボットタクシー」。
それが当たり前になる2020年の未来をムービーで描き、実証実験を行うキャンペーンです。
これが政治家や自治体関係者にまで波及し、安倍首相にもムービーを見て頂けました。
最終的に、政府が2020年までに自動運転を実現すると宣言するまでに至っています。
https://job.cinra.net/special/newpeace/
このムービーは米Gizmodoなどでも取り上げられて日本国外でも多く見られ、自動運転政策の後押しになったと言われています。
自分たちの仕事が世界と直結していて、時代を大きく動かしているのではないかという予感がありました。
そして、NEWPEACEによく出入りしている先輩たちが聞かせてくれる、それぞれの会社での仕事が世間を賑わせている様子を見て、その予感が実感に変わっていきました。
TBWA\HAKUHODOの梅田さん、リクルートコミュニケーションズ(現・NEWPEACE Inc. COO)の明和さん
ジェネラリストからスペシャリストへ
当時の自分はディレクションから、動画撮影、記事執筆、コーディングまで、まさになんでも屋という感じで、色々な仕事をしていました。
そんな2016年春頃、エンジニアリングを担当した仕事が見ず知らずの人のブログでベタ褒めされるという経験をしました。
要するに謝罪文しか表示しないけど絶対落ちないサーバをAmazonさんから短期的に借りる。
今後、芸能人の謝罪文はAWSのS3というソリューションが増える。
GMOさんは芸能人に強いのに営業しないのかな。
CAと組んで謝罪文サーバとか売ればいいのに。
これは、芸能人のサイトを運用している人には重要な事例だ。
教科書にのるかもしれない。
むしろ、今後の謝罪ページのセオリーになるかもしれない。
昔に比べて、DNSの浸透は爆速になったので、こういうのが可能なんだろな。
http://fukuyuki.net/post-805/
実際にはここで褒められた事の何十倍も高度な仕組みを、その仕事の展開として用意していたのもあって、エンジニアリングに自信を持ち、約3ヶ月の勉強期間を貰ってエンジニアとしてスペシャリストになるべく猛勉強させてもらうことにしました。
2016年夏頃からテクニカルディレクターとしてテクノロジーに関する責任者になり、社内ネットワーク設計から、CI / CDの仕組み作り、自社プロダクトのデジタルサイネージ開発まで、様々なレイヤーで技術的挑戦ができたと思っています。
詳しくは以下ブログなどにまとまっています。
2017年夏からは、縁あってDMM.comにも所属し、リモートで仕事するようになりました。
NEWPEACEとは何だったのか?
09月上旬から、退職報告のブログを書こうと思っては、まとまらない日々が続きました。
ここまで書いてきたように、NEWPEACEは自分にとって、会社だけれど、会社以上の何かでした。
もうメンバーじゃないという実感もなかなか持てませんでした。
コミュニティー、実験場、仲間、戦友……。
どんな言葉もしっくりこないこの存在は何なのだろう。頭の片隅で答えを模索する日々が続きました。
自分がNEWPEACEで成し遂げた一番大きなことはなんだろう。
そう自問したとき、
それは、自らの成長でした。
メンバーの成長が一番の成果だなんて、会社としては間違っているのかもしれない。
だから自分にとってNEWPEACEは会社ではなかったのだと気付きました。
自分にとっては、最前線で血と汗を流しながら学ぶ、そんな荒々しい学校だったのだと。
多くの先輩とちょっとの後輩がいて、ケンカも沢山して、朝まで飲んで、でも普段は結果にストイックで。
それが一番しっくりくるから、退職するときみんな「転職おめでとう!」でも「お疲れ様!」でもなく「卒業おめでとう!」と言ってくれたんだという気がしました。
高校生のとき、エリートになりたいと思っていた時期がありました。
みんなが目指すような大学に入って、みんなが目指すような企業に就職したいと思っていました。
それがクールな生き方のように見えていました。
だからあえて言います。
自分は叩き上げだ、と。
そして、19歳の生意気なガキを広い心と深い期待で叩き上げていただいた、
高木新平さん、NEWPEACEメンバー、そして関わってくださったクライアントとパートナーの皆様に、最大限の感謝を申し上げます。
ありがとうございました!
卒業証書
そしていま、NEWPEACEは母校になりました。
これからのこと
現在は、合同会社DMM.com内の「DMM.comグループ 会長室」というところで、自ら企画した新規事業を実現するべく試行錯誤しています。
この新規事業の企画に取り組み始めたのが07月中旬頃で、08月は寝る暇もないほど没頭してプラン策定をしていました。
自分が小中学生の頃から興味があった“コンテンツの価値”に関する分野でいまだ答えが出ていない問題を、ブロックチェーンやハッシュアルゴリズムを基礎に技術的に解決します。
今回退職を決めたのも、その事業に本気でコミットするためです。
学校の評価は、卒業生の活躍によって決まるのが世の常です。
NEWPEACEへの恩に報いるためにも全力で取り組んでいきます。
今後ともよろしくお願いします!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?