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世界に変えられてしまわないために

「創造性を身につけるためにはどうしたらいいですか?」
トークイベントや学生向けの講義で、こんな質問をされることがある。その度にアイデア発想のヒントだったり、作品をつくる時に気をつけているポイントについて話すのだが、以前からこの質問自体にいつも何か違和感を感じていた。自分はたしかに「クリエイティブ」と言われる仕事をしているが、創造的であること自体を目標にしてきたわけではないし、昨今の「これからはAIに代替できない創造性を身につけなければならない」といったべき論にも違和感があった。

『情報環世界』という概念を通じて、そもそも自分はなぜ「クリエイティブ」な仕事、世の中にない何かを「つくる」仕事をしているのだろう?と改めて自分に問いかけてみて、まず自分の興味関心の原点が「わかる」にあることに気づいた。似たもの探しを通じて子どもたちに身の回りの自然に潜む原理や法則の面白さを伝えるNHK Eテレの「ミミクリーズ」、関数という概念を使って日常のさまざまな現象を説明できることの面白さを伝える進研ゼミの「関数サプリ」、アスリートの環世界を紐解く「アスリート展」、ディープラーニングの仕組みをイメージで伝える「人間ってナンだ? 超AI入門」 –––。今までわからなかったことがわかることの面白さ、逆に、わかっていると思っていたことがわからなくなる面白さ。そして、自分が得た新しい世界の見方を他の誰かも面白いと感じてくれるんじゃないか、自分もそういった新しい見方を誰かに伝えることができるんじゃないか。そんな思いが自分のクリエイティビティの根源にあるのだ。


予測と現実のギャップを埋める

予測する脳」で取り上げたように、考えることは、現実から「もしかして」の可能性の世界へ旅することであり、考えることは、脳があらかじめ予測したものと感覚器官が現実世界から受け取るものに差異があるときにはじめて引き起こされる。わたしたちは、その差異をなるべくなくすために、つまり、考えないですむために考えるのだ。

では、脳の予測と現実のギャップを埋めるとき、「わたしの予測は間違っていた」と頭の中の予測モデルをすぐ一方的に修正するかといえばそうではない。前回紹介した「予測的符号化理論」によれば、外からの情報が予測モデルと食い違っていた時、いきなり外からの情報を受け入れるのではなく、まずは体を移動させて見る角度を変えてみたり近寄ってみたりといった「能動的推論(Active Inference)」と呼ばれる実世界への働きかけによる感覚信号の積極的な調整が行われるとされる。 「能動的推論」というと難しそうだが、要は何かを見て「思ってたのと違う」とき、わたしたちはどうするかというとまず「二度見」するよねという話だ。


つくることでわかる

知覚と作用の連動が作りあげる生物学的な環世界に対して、情報環世界を生きるわたしたちは、身体的な運動による「二度見」にとどまらず、言語や技術など、さまざまな道具を使って何かを「つくる」ことができる。内的な予測モデルを外在化させ、かたちにすることができるのだ。脳が予測する内的モデルと実世界のギャップを埋める時、内的モデルを修正する前にまず行う「二度見」を「能動的推論」と呼ぶのであれば、「つくる」ことは、それよりさらに能動的な実世界への働きかけと言うことができそうだ。

20世紀で最も影響力のある物理学者の一人で、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』など、科学の面白さをシンプルな言葉で多くの人に伝える逸話の数々でも知られるリチャード・ファインマンは、1988年にこの世を去る時、黒板にこんな言葉を残している。

What I Cannot Create, I Do Not Understand.
つくれないものは、わかったとはいえない
(リチャード・ファインマンが最期に黒板に書き残した言葉より)

わかるためにつくる。わからないからつくる。つくることでわかる。「わかる」と「つくる」の連動がそこにはあるのだ。

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世界に変えられてしまわないために

一方で、脳が予測する内的モデルと実世界のギャップを埋める時、自分の内的モデルの側を修正するのではなく、内的モデルを「つくる」ことで外在化させ、誰かに伝え、世界に問いかけ、むしろ実世界の側を変容させることでギャップを埋めるというやり方もある。

作品をつくるアーティストにせよ、スタートアップをはじめる起業家にせよ、まだ世の中にない何かを「つくる」人たちの創造性の根源は、そのような自分の内的モデルと実世界の間の小さな齟齬や違和感にあるのではないだろうか。「自分には世界はこう見えているんだけど…」「世界はこうあるべきだと思うんだけど…」「なんで世界はこうなってないんだろう…」、そんな弱いシグナルを見過すごさず、安易に自分の内的モデルを修正してしまうことなく、それをやる価値があると信じて、「つくる」ことで世界に向けて問いかけてみることを諦めないこと。それこそがクリエイティビティだと思うのだ。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはなら
ない。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。
(マハトマ・ガンジーの言葉より)

わたしたちは、もともとできれば考えないですませたい生き物であり、日々の小さな違和感をつい見過ごして「わかったこと」にしてしまいがちである。それは裏を返せば、いつの間にか自分が世界に変えられてしまっているということであり、それでは未来を変えるイノベーションの種も生まれなければ、気づいたら「茶色の朝」を迎えることにもなりかねない。

変わりたいけど変えられたくない

自らの環世界と実世界のギャップを見過ごさず、それを埋めるために、時には積極的に自分が変わり、時には自分を変えずに世界に問う。

以前、Takramに集まっている人たちって一言で言うとどんな人たちだろうと社内で話をしていたことがある。メンバーぞれぞれが多様な価値観を持ち、常に変わり続けようとし、集まっている人たちの環世界が重なり合って全体の輪郭を作っている、Takramはそんな組織でありたい。誰かが言った「自分では変わりたいけど、人には変えられたくないんですよね。」という言葉に、珍しくそこにいたみんなが同意した。なんというか、ちょっと面倒くさい人たちの集まりだけど、創造性ってそういうことかもしれない。


【追記】初めての単著『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』がBNNから2021年5月21日に発売されました。行き過ぎた現代のテクノロジーは、いかにして再び「ちょうどいい道具」になれるのか——人間と自然とテクノロジーについて書いた本です。この記事の内容にも触れています。


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