ぺぺの原則性

 ぺぺがいなければ、究極さんと埼玉県立不動岡高校の話などをすることはなかっただろう。
良くも悪くもある種の党派性が明確な「あかね」に比して、「沖縄食堂」月曜日ぺぺシフトはぺぺをハブとしてよりオープンな場であった。
「あかね」は外から中が見えない(正確に言うと中の人間に気づかれずにのぞき込むことができない)が、「沖縄食堂」は外から覗いて、会いたくないやつがいれば入るのをやめることもできたのが大きいだろう。実際、色々な友達・同志・外国人旅行客等と一緒に、「今日は月曜日、俺の友達がいるから沖縄食堂に行こう」と店まで行って、覗いた結果、「あ、やっぱり今日はやめて、他の店に行こう」としたことがしょっちゅうあった。
 客が誰もいないこともよくあって、ペペとギャグの応酬やら思い出話や噂話に花を咲かせる時間は豊穣で至福だった。豚の角煮もオーナーに叱られない範囲で失敬したし、お茶だけでオーダーせず金を払わないのが大半、知り合いが来たらおごってもらおうと待ち構えつつ。

西大和団地の塚原家は上手くgrooveしてる方の埼玉団地家庭の典型例だった。
明るく、オープンでフランクで、家父長制的な要素は少ない。
(ショウジロウさんが、越後インテリ左派流れの飄々とした人物《無職時代も長く いい意味での『ヒモ』キャラ》で、ようこさんが女丈夫的な肝っ玉キャラだったことも大きい)
ただ、戦後核家族の範疇に入ることは明らかなのでその限界に対して風穴を開ける努力もぺぺは怠ってはいなかった。左翼活動やだめ連活動やら介助の現場、日々の高円寺ヒッピー的な生活の中にショウジロウさんやようこさんを導入し、逆に西大和団地にしょっちゅうぺぺの広い交流圏の人士を招待していた。

ショウジロウさんは良く飲み屋等で意気投合した人士を西大和団地に連れてきていて、子供としてのぺぺは面白かったがようこさんは時には微妙な反応のときもあったらしい。
家庭の閉塞感を打ち破るにはそういうことは重要で、それは居候・食客をおくことの重要性とともに良くぺぺと話し合ったテーマだった。

19歳の頃、私は王子の家賃9000円のアパートに住んでいて、近くの公園で朝方発声練習をしていると、近くの団地から散歩に来ているお父さんに話しかけられて、朝飯に呼ばれることが良くあった。大体、お母さんは「またかよ」的な微妙な反応だけど子供達は喜んでいる。
 そのままダラダラとお父さんが仕事に出てからも居座ったことも良くあるし、お母さんとお茶してしみじみ話し合ったり、その子供をハブとしてしょっちゅう公園での遊びに入れてもらったりしていた。私はやらなかったが、友達は同種の状況下でお母さんと性交渉を持ったりしたヤツもいた。

大学に入ってから、屋外で鍋をしていると、近くの都営団地のお父さんが酔っぱらって通りかかり、一緒に家に呼ばれて行ったことがたまにあった。そのときも大体同じ状況でお母さんは「またかよ」という微妙な反応だが、子供は喜んでいる。
その流れの中で子供の家庭教師をやったりしたヤツもいたし、私も良く留守番を頼まれたりした。

そのあたり重要だよなぁ。

もうすぐペペの49日。その方向性ではぺぺは日和ることはなかった。
頑張ろう。

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