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心の島 小笠原−22 チリ津波と    それにまつわる思い出

東日本大震災の1年前、2010年2月27日、日本時間の15時34分にチリ中部沿岸でマグニチュード8.5の地震があった。その事自体は知らなかった。しかし、翌朝になって突然、防災無線から聞いたことがない警報が鳴り響いた。


小笠原との関わりは30年以上になる。
取材で、個人の旅で、もう何十回行ったかわからない。コロナ禍の3年を除いて行かなかった年はないし、一時期は住んでもいた。その間に見たり、感じたりしたことを1つずつまとめていってもいいかなと思い、書き始めた。本当の雑記だが、興味あったら幸いです。


朝、突然防災無線から警報が……

この日、よほど慌てたらしく当時つけていた日記にほとんど記述がないので、うろおぼえのまま書いている。気象庁のサイトによれば、午前9時33分、小笠原諸島に津波警報が発令されている。リンク先を見ていただければ分かるように、青森県太平洋沿岸や岩手県、宮城県には大津波警報が発令されているし、津波警報は小笠原諸島だけではなく太平洋岸のかなりのエリアに出ている。

前日、またも飲んだくれて二日酔い気味だったところに、防災無線(一家に一台、役場から貸与されている)から聞いたことのない警報が大きな音で鳴り響き、機械的な声で「津波警報が発令されました……」というようなメッセージが流れたと記憶している。
しかし、役場職員の肉声の声でのアナウンスはなく、
「えっ、これどうすればいいの? どっかに逃げるの?」などボケーっと考えていた。ただ、小笠原は1960年のチリ津波のときに結構被害を受けていたという話は聞いていたので、このままボケーっとしているわけにもいかない。とりあえず、アパートのベランダ続きの隣のHさんに
「今の聞きました? あれって、どうすればいいんでしょう。避難所とかあるのかしら」と聞いてみた。
「うーん、どうなんだろう……」
誰だって、分かる訳はない。ちなみに、これは2010年である。2011年3月11日以降ならこんなにのんびりしていなかったと思う。

とりあえず支庁庁舎に行ってみたが……

よく覚えていないけど、私は車がなかったので、Hさんがうちのネコともども載せてくれると言ってくれ、とりあえず支庁(都庁の出先機関)の母島庁舎に行ってみようということになったと記憶している。このとき、なぜ支庁にみんな集まったのか、台風のときの避難所はもっと高台の診療所だったように思うが、どうして支庁だったか(記憶違いかもしれない)、役場から案内の放送が流れたのか覚えていない。
いずれにしても住んでいたアパートは海から一直線の道沿いにあるので、そこにじっとしているのも危ないということで、ありがたく車に載せていただいて支庁へ向かってみた。
すでに沢山の人が来ていた。みんな、2階のベランダ(?)から海を見ている。しかし、何時間経っても特に変化はないので、だんだん子どもたちは飽きてきて遊び始めた。
車で海沿いを走っている車が見えた。ことあるごとに私を小バカにしていた人(4回目参照)と、友だちが乗っているのが見えた。海の様子を見に走っているようだった。周囲はだんだん、「もういいんじゃない?」という感じになってきた。

ただこの日大変だったのは文化交流会のために父島から母島に来ていた人たちだ。年に1回、父島母島それぞれの文化系のサークル(太鼓やコーラス、フラ、ブラスバンドなどなど)が共演する会が行われていて、その年は母島が会場だったのだ。27日がその日で、それぞれ1泊して28日朝の「ははじま丸」(父島〜母島間の定期船)で帰るはずだったのだ。
本来なら朝10時に出港するはずの「ははじま丸」は警報が解除になるまで出港できない。みんな帰るに帰れない。友人知人がたくさん父島から来ていた。みんな困った困ったいいつつも、しょうがないよね〜という諦めムードだった。だいたい、大騒ぎしたところで船は出ないので、受け入れるしかないのだ。
結局、母島には目に見えるほどの潮位の変化はこなかった。先の気象庁のサイトを見ると、13時02分に南鳥島で0.1mの第一波を観測と書いてあるけれど、母島にも父島にも大きな波は来なかった。

だんだんみんな「家に帰ろう」という感じになり、「島にいるとこういうことってよくあるよね〜」みたいなムードで三々五々家に戻っていった。
この流れでだったか、父島の人たちが「いつ帰れるんだ」という感じで波止場に集まってきていた。でも、伊豆諸島開発(運行会社)の人だってわからない。ワイワイ、ざわざわとした中で、元母島の支所長だった人が、確か、「今はまだ情報がなく、船はいつ出るかわからない、出ることが決まったらすぐに防災無線が流れるだろうから、ここはいったん、それぞれ友人知人のところや宿にもどりましょう」……というようなことをよく通る声で言った(この人自身、文化交流で父島から来ていたのだ)。
その落ち着いた声にみんなのざわざわは収まって、人々は散っていった。母島の友人が「さすが元支所長」とつぶやいた。

津波警報の夜、島の古いご夫婦に招かれて……

このとき、私にとってとても大事な島の古い歴史の当事者であるご夫婦が「良かったら今晩、うちにご飯食べに来なさい」と言ってくれ、さらに私の懐具合を見透かしたように「手ぶらで来なさいよ、手ぶらで」と付け加えてくれた。

そこで、夜はそのお家に伺って、返還直後の話など聞きながら、ごちそうをいただいた。そのご主人は、1990年頃に、私が返還後に島に移住してきた新島民というカテゴリーで呼ばれていた人たちと協力しあって、兄島に空港を作ることは本当にいいことなのか? と考える会(小笠原ネイチャーフォーラムといった)を作っていたときに、私たちとは違う考え、要するに空港推進の立場にたっていたので、深く話をしたことはなかった。しかし、時が経ち、兄島空港は事実上なくなり(空港計画自体は今も消えていないが)、時折顔を合わせることがあるとぽつりぽつりと話をするようになった。

そして島に住んでからは、この人の奥の深さや、住民のためにどれだけさまざまな力を尽くしてきたかということが分かってきて、返還後、島を立て直すためにどんな苦労をして今があるか、それでももっとみんなが暮らしやすくなるためには何が必要か、と考えたときに出てくる空港必要論というのは、私が外から自然との共存みたいな言葉で言うこととは一見異なるようでいて、全く異ならないわけでもないことが分かってきた。
よく話せば、どこかに接点があるような、島をどうしていくべきかということを前を向いて考えるときには同じなのかもと、私も歳を重ねたり、島に住んだりしたことで分かってきた。
もっと直接的な、拝金主義的な考えで空港必要論を掲げる人はたくさんいたけれど、それとは奥の深さが全く異なった。
その人は、私が自費で島を取材するために移住した来たということを理解し、応援するからと言ってくれていて、とてもうれしかった。ある意味、島ぐらしの心の支えでもあった。

話がまたずれた。この人と話したことは、たくさん書き残しているが、今は触れない。軽々しく書くべきではないと思っている。機会があったら書いてみたいと思う。

さて、「ははじま丸」は夜8時半頃に出港となった。ご夫婦も父島の知り合いのお見送りで一緒に桟橋へ行ったと思う。桟橋は帰る人、見送る人でごった返していた。
父島の顔見知りに「おつかれ、大変だったね〜」と声をかけたりして、出港する船を手を振って見送った。肩透かしの警報だったね〜なんて軽口を叩いたかもしれない。
まさかそれから1年後に、あの大地震と津波が日本をみまうとは、このとき誰ひとり思っていなかっただろう。

島での暮らしの芯をもらった

この後、招いてくれたご夫婦の家に戻ったのかどうか、覚えていない。
そのご主人は何年も前に亡くなられた。内地でのご葬儀が、ちょうど私が小笠原へ取材に出発する日と重なっていたので、ご葬儀までの間、お会いできる霊安室に面会に行った(船で葬儀の日より先に内地に着いていらしたのだ)。島での話、色んな人にいつも気を配っていた姿を思い出して涙が止まらなかった。
あのとき話した言葉は、何年経っても、小笠原に関わり続ける限り、立ち戻る位置を教えてくれる貴重なものになった。

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