見出し画像

父の話をしよう

父は昨年2022年4月29日に亡くなりました。この文は2020年1月に父がグループホームに入所した時に渡した手紙に加筆したものである

青森に生まれる

私の父の話をしよう。父の名前は等(ひとし)である。
小笠原勇造(ゆうぞう)・きせ の長男である。

父は昭和7年8月23日に青森県五所川原市稲垣村で小笠原家の二男として生まれた。写真後列右から父の実父・嘉四(かし)と実母・あね である。私には3組の祖父母がいたことになります。

小笠原等の両親、祖父母と兄弟たち、左の 学生帽をかぶっているのが父で1年生か2年生
年代は昭和13年または14年頃か

写真の後列左から父の両親・勇造ときせ。その前で下を見ている半ズボンの少年が二男の父である。キセは嘉四の妹であり父を長男として養子縁組した。写真はその時に撮ったのだろう。父の右隣りは、父の祖父である清吉(せいきち)と後ろに祖母ヨシが立つ。私のルーツでもあります。

写真前列の右側は嘉四・あね の子供達、長男の清左ヱ門(せいざえもん)、三男の清一(せいいち)、抱っこされている長女 きよ、等の兄弟達である。

写真の撮影場所は、今の住所でつがる市稲垣町沼崎にある本家の前と思われます。父の姓は小笠原であることから、小笠原きせに越後谷勇造が婿入りしている。私の祖父になる勇造は今でいうマスオさんです。勇造は父と将来結婚することになる私の母・照枝子の父方の叔父にあたる。何とも面倒ですが、皆が親戚の様です。

北海道へ向かい室蘭の日本製鋼所に入社

 小笠原勇造・きせ夫婦は父を連れて北海道へと移り住み、終戦は現在の登別市の幌別でむかえた。当時勇造・きせは幌別のソーダ工場で働いていたと聞いたことがある。今の北海道曹達ではないかと思う。戦後、勇造は室蘭の日本製鋼所へ入社。鋳造工場に配属された。一家は御前水町の社宅に住むようになる。

 父は新制の室蘭工業高校の冶金科へ進学。新制高校の第一期生である。運動よりも勉強が好きで、良い成績だったようだ。進学を考えたが、親と同じ日本製鋼所に就職した。しかし勉学の熱は冷めず、特に英語を学び続けるために常磐町のモルモン教の教会に通った。何年かすると日曜学校の先生もしたことがあったそうだ。そういえば祖母のきせが教えてくれたが、祖母と小学生の父が汽車に乗っていた時に、向かいの席に座っている学生が英語の本を読んでいたのを見て祖母が父に聞いたそうだ「等は英語がわかる様になるかね(津軽弁のはずだが)」「母さん大丈夫だよ」と応えたそうです。その時からすごかったんですね。

 父が会社に入って初めての鋳物製品作成が室蘭水族館内の「プロビデンス号来航記念碑」である。これは2015年に室蘭水族館に両親を連れて行った時に初めて私に語ったこと。

室蘭水族館内に建つ「プロビデンス号来航記念碑」

長男の弘志が誕生

昭和30年に私が生まれたのだが、その前年に父は私の母になる越後谷照枝子(てるえこ)と結婚。青森県木造町に生まれた母は子供の時から知っている父に19歳で嫁いだ。勉強より竹の棒登りとバレーボールが得意なミス木造だったと母はよく私に話してくれた。

私を抱く母の照枝子と父の等
母の両親と一緒に 昭和30年

写真は父、私を抱いた母、母の両親、私の祖父母である義視(よしみ)とイサである。祖父母は木造町でリンゴ畑、スイカ畑、水田を持っていた。昭和49年に祖父は出稼ぎ中に東京で亡くなった。一人になった祖母は、畑を全て祖父の親戚に譲り、隠居暮らしをしていた。

祖父は自分でもアル中だと話していたくらいお酒(種類は何でも良い)が大好きな人だった。青森で祝言があると何日も家に帰らずに飲んでいたと聞いたことがある。私の両親はあまり酒をたしなまず、兄弟でお酒を飲むのは私くらいかな。

祖父のDNAは私が受け継いだのかも。祖父は国鉄で働いていた。北海道での勤務経験がある。多分、登別あたりで父の一家との接触もあったのではないかと思います。

 結婚した私の両親は御前水町1丁目22番地の社宅に新居を設ける。なんと社宅の隣は祖父母の家。現代の方でしたらアンビリーバボです。私が物心ついた時には、2件の間の壁がぶち抜かれていて、私が行ったり来たりしていた。

子供時代の様々な話は後に譲る。

父の大きな転機

当時のパスポート(表紙は革装丁)  
左ページにThe Japan Steel Works, Ltd.とある

 父の大きな転機は昭和36年6月30日から9月30日までの3か月間のアメリカ出張である。米国VISAにはIron Ball mfg社との技術打合せとある。父は英語が堪能だったので、出張メンバーに選ばれたようだ。高卒で海外出張は珍しく、実は私も父と同じ日本製鋼所へこの12年後に入社するのだが、原子力部に居た26歳の時に先輩の代わりに突然ヨーロッパ出張1か月となり、出張前に総務課で言い渡された事は、高卒で海外出張した者はいないとの説明。私たちは親子で高卒初の海外出張だったのである。私の説明は後に譲る。   

父の出張中の話しで覚えているのは、ディズニーランド、ナイアガラの滝、ハワイのフラダンスなどでした。当時では珍しい8mmで撮影したたくさんの映画を帰国後に見せてもらいました。もちろん音声は父の弁士でした。


日本製鋼所での仕事

   タービンケーシング鋳物

 日本製鋼所での父の仕事のもう一つの実績が、当時の鹿野所長の工学博士論文の英訳のヘルプだと聞きました。工業英語は、実際に英語で仕事をした経験が無いと難しいものです。これは自慢する風でもなく、一緒に車に乗っているときにポツット話したこと。なぜか父も祖父の勇造と同じ鋳造工場に配属された。鋳造工場は、母恋(ぼこい)の室蘭製鋼所正門から入って進み、最初の線路を渡り右手にある巨大な建屋が鋳造工場だった。私が入社した昭和48年当時も忙しい工場だった。毎日鋳物砂をはがす仕事だと思うのだが、砂ぼこりがモクモクとする中で水車やケーシングといった大きな鋳造製品に人が群がっているという印象です。

父は昭和50年代に入ってから鋳造の計画として事務所勤めになりました。その時には、原子力製品の製造計画を作っており、よく一緒に海外規格やドイツのメーカーの仕様について話しました。

父が突然川崎市民になった

 昭和50年代中頃から始まった世界的な鉄鋼不況が進み、私は昭和59年4月1日付で日本製鋼所の東京本社開発本部勤務となりました。私と妻のやよいは金沢文庫の日本製鋼所社宅に移り住みました。8か月後には府中工場勤務となり、社宅も府中市へ移動することに。11月に身重のやよいと1年で2度目の引っ越しを行い府中市民となりました。

数年後に60歳定年となった両親が川崎に住込みで働いているという電話を貰う。その突然の連絡があり、私はTVを持参して会いに行った。なぜか新聞店の住込みで働くと言ってきかない。数日するとシンドイと電話で私にコボシタ。私は新聞の求人広告で羽田の空港職員寮の求人を見つけ、切り抜いて父へ送った。父と母はすぐに面接に行ったのだが、すでに羽田の求人は決まっていた。ところが府中からそう遠くない久我山の日本輸出入銀行の独身寮の管理人の募集もあり、すぐに採用された。父の英語の技量が幸いしたようだった。

久我山の寮の管理人を務めた父母の10年間の出来事では書ききれないことがたくさんある。祖母のきせが人生の最後を迎えたのも東京だった。幸いにも私とやよいが面会に行った日に目の前で祖母が最後の深い息をして亡くなったのである。

両親が室蘭へ戻る

父と母は10年間の東京での寮の管理人としての生活を終え室蘭に戻った。

父が80歳になった時に、既に兄の清左ヱ門は亡くなっていたが、父の弟たちの呼びかけで、青森に全兄弟が集まった。その時には、これが今生最後の兄弟旅行だと言っていました。私も両親を車で連れて行き、付き添いで参加しました。皆が歌を歌うんです。そー言えば私の結婚式の時もそうでした。身内の結婚式では必ず叔父叔母が列を作ってステージに上がって歌うんです。

その後、両親と同居していた私の弟、博之が突然と逝ってしまった。父の弟たち清一と俊夫が相次いで亡くなりました。そして母の2度にわたる入院と別れがあった。

人は生きていれば出会いと別れがあるが、近年の父は同級生や囲碁仲間も亡くなったりして、寂しいと言っていた。

それでも母が入院した時には毎日の様にお見舞いにとバスに乗って通った。

そんな芯の強さを持った人、信念の人、だから頑固な人でもある。

私は、そんな父の元に生まれてきて良かったと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?