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それを、臼井先生は伝えていたのかもしれないです。どうも、西陣の拝み屋 霊媒師の惠御子こと水口美惠子でございます。本日は成人式だったようですね、新成人の皆様おめでとうございます。私はといえば、本日は一日こちらにいっておりました。

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京都上洛三年目、上洛したばかりの夏に主神さまと呼んでいる下鴨神社さんでお能を習うチャンスに恵まれました。お教室が終わるとき先生が「仕舞も謡も個人的に教えてますよ」とおっしゃり、お名刺まで頂いたのですが。当時この先生にあこがれが過ぎておりまして(笑)まぁ、恐れ多くて、なかなかお稽古に行けずに早一年が過ぎ。昨年の春、別のところから滋賀の三井寺に奉納謡に行く話が舞い込み、謡のお稽古に通うことになりました。その先生が何を隠そう、この下鴨神社の先生が指導に見えて再会。ご縁ってあるんだなあって、感じざるを得ないできごとでございました。それから紆余曲折あり、個人稽古に通いたいです、とお願いしたときには、初めて先生にお目にかかってから一年半が過ぎていました。

お師匠はとても丁寧に教えてくださる方で、なによりその声が何よりも好きなわたし。当たり前かもしれないのですが、お師匠にとって能楽というのはなんだか人生のすべてのような気がしていて、だからこそ、最低10年は辞めない覚悟ができなければお稽古に通ってはいけないと思っていました。そんなこと思って通ってるの、きっとわたしだけなんだろうな(笑)。

そんなわたしはというと、奉納謡のときも、どうにも稽古中に意識が飛んでしまう(笑)。笑い事じゃないんですが、もう「寝てんの?ちゃんとして!」みたいな人になります。いま個人稽古では流石に寝ませんが、観劇はやはり寝る寝る(^◇^;)。一度お師匠にその話を怒られる覚悟でさせていただいたことがありました。でも意外にすとんと受け止めてくださったので、結果的にまた惚れ直すっていうね(笑)。いい指導者との出会いって、大切だなぁと思います。自分も誰かのそんな指導者になれているのだろうか。

人間は「自分ができること」と「自分がやりたいこと」の両方が満たされる場所にいるべきなんだそうです。それってつまりは「最大限に努力したらやれる場所」ってことになるわけですが。だからこそ、「なにがやりたいか」を常に明確にしておかないと危ないわけで、そのためには見聞を広く持ち「いいな、それやってみたい」って思っておくことは大切だと思います。わたしにとってお能とは「観れて、語れて、意味がわかるものでありたい」という願いのものでありまして。いまは観劇中に余裕で寝ていたりするんですが(どう頑張っても起きていられない自分の不甲斐なさがとても嫌)。いつか、この舞台を通しで全部寝ないで見られる日がくればいいな、と思っていたりするわけです。

文化的筋トレとして、お能観劇中に眠らない自分を作るため、今年は定期的に観劇に通わせていただこうと思っています。自分も謡を習っている身として、見ることは本当に勉強になりますので。同時に、思うわけです。どうして寝ちゃうんだろう、って考えた結果たどり着いた答えが「声」でした。霊媒師だし、結構特殊な体質だし。だからきっと、お能の何かに癒されているのだろうと思うのです。その結果寝る。いまはまだお能=癒されるものなんだろうなぁ、と。

どうしてそうなるのかって不思議でしたが、お能はその昔呪術的な要素をはらんでいたという説があるそうで。こういうお話ができるお師匠にはやっぱり憧れます、知らないこと(そして知りたいこと)を知っている人に弱いタイプの人間なので。

わたしの文化的筋トレは、まだ始まったばかりでごじゃります。

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。