見出し画像

世界の正しい終わり方

(韓国映画『新しき世界』ネタバレ感想です。)

理想的な、お兄ちゃん

 チョン・チョンという理想的な兄ちゃんの話をしたい。韓国ノワール映画『新しき世界』に登場するヤクザのことだ。彼は、とにかく、すごい奴なのである。

 まず、仕事ができる。在韓華僑の強みを生かして、韓国語と中国語をあやつり、中国マフィアとの取引を一手に担い、韓国最大の暴力団組織において、若くして序列3位の地位に立つ。組織の跡目争いの有力候補でもある。そして、どこか抜けてて、親しみやすい。こざっぱりとしたスーツ姿で出迎える舎弟の前に、白ジャケットとスリッパ履きであらわれる。悪ふざけで舎弟を殴る時は、ヤクザなのに、ポコポコ、ベチベチと音が聞こえてきそうな仕草だし、部下の席へ行って自らお酌してまわる身軽さもある。それでいて、筋はしっかり通す。警察の甘言には、全く耳を貸さない。跡目争いに介入しようとする警察を、きっぱりはっきり拒絶する。そして、他人のことを考えられる包容力と強さまである。舎弟の家族にも気をつかうし、跡目争いの競合相手、序列4位のジュングが悪ノリして挑発してきても本気では怒らない。彼が警察に逮捕された時には、弁護士を動かしたりして、なんだかんだと世話を焼く。仕事が出来て、偉ぶらない。組織のことを考えて、部下とのコミュニケーションも密にとる。理想的な上司であり、頼れる兄貴的な存在だ。映画を観てもらえれば分かると思うが、人間味あふれる好感度MAXな人間なのである。

 『新しき世界』のストーリーを端的にまとめると、ヤクザに潜入した警察の下っ端ジャソン(主人公)が、警察と手を切り、ヤクザのトップにおさまる話である。ヤクザと警察という相反する世界で、それぞれでのポジションも異なる主人公が、端っこから斜め上に向かって、一気に駆け上がる、本作はそういう話だ。チョン・チョンは、その主人公の直属のボスである。頼れる兄貴チョン・チョンを中心に、この映画について考えてみた。結論から言ってしまえば、この映画は、「あるべき理想」を背負ったチョン・チョンがいて、初めて成り立つ物語なのである。

贄と神託

 ここで、韓国の儒教的な考え方について話しておきたい。韓国は、基本的に儒教の国である。儒教の祖霊崇拝の信仰を持ち、自分の属している、特に父系の血統や共同体の歴史という、縦のつながり、縦の序列を重視している。家系図をさらに詳しくしたような族譜や、長男が祖先崇拝儀礼を取り仕切るなど、儒教は、現代においても、深く生活に根付いている。一方で、父系の縦のつながりを重視する考えは、ひとりの個人に、多くの期待を寄せることになる。男なら、良き男、良き上司、良き息子、良き友人といったように、多くの「あるべき姿」が期待され、そのプレッシャーは日本より強い。だからこそ、そこから「自由になる」こと、過去とは連続しない、何かに「変わる」ことへの憧れも、また、強い。

 だから、ただ単に「自由になる」だけだと賞賛しにくい。けれども、それなりの対価と引き換えに得られた自由ならば賞賛したい、むしろ、そういう物語を求めているのが韓国だ。2013年に公開された『新しき世界』は、青少年観覧不可(19歳以上観覧可)という制約の中で、観客動員数468万人を超え、大ヒットした。警察からヤクザへ変わる、ある意味、大きな「父」からの離脱の物語だ。その離脱に見合う「対価」こそ、本作を支えるもう一つの物語なのである。

 本作では自由を得るために多くの対価が支払われる。主人公ジャソンは、警察とヤクザとの二重の役割に、ずっと苦しんでいるし、人の命は次から次へと喪われていく。その中でも、もっとも大きな支払いは、「あるべき理想」を背負ったチョン・チョンの喪失である。序列4位ジュングとの抗争の末に、瀕死の重傷を負ったチョン・チョンは、死に際に最後の言葉を、ジャソンに託す。

苦しんでるみたいだな
そんなに悩むな
この辺で選べ
兄貴の言うことを聞け
お前が生き残るためだ

 すでに、チョン・チョンは、ジャソンが警察であることを知っている。ジャソンの状況は逼迫していて、取れる選択肢は、「警察として、ヤクザを続けるか」「警察と手を切って、ヤクザを続けるか」の二択である。チョン・チョンの死に際のやり取りのなかで、ジャソンは初めてチョン・チョンを「兄貴」と呼んだ。警察という、大きな「父」とのつながりを切って、ヤクザな「兄」とのつながりを結びなおした瞬間である。

<強くなれ>
<強く生きるんだ>
<俺の舎弟よ>
<それがお前の生きる道だ 分かったか?>

 「兄」の言葉は重い。最期に中国語で語られるチョン・チョンの言葉は、主人公に授けられた神託だ。この言葉を受けて、物語は一気に加速する。偉大な「兄」は、物語の贄であり、「父」と縁を切るという罪を、ジャソンに代わって引き受けた。この贄の奉納と神託という後押しがあってこそ、物語の結末は、正しくバランスし、人々は安心して受け入れることができるのだ。

 ひとつ、蛇足かもしれないが、在韓華僑について、少しだけ話しておきたい。
 本作では、ナショナル・マイノリティの、強く明るいポジティブな面はチョン・チョンが、差別的なまなざしなどのネガティブな面は「延辺の物乞い」が引き受けている。「延辺の物乞い」はチョン・チョンが警察を排除するために呼び寄せた殺し屋たちだ。彼らは、中国に渡った朝鮮族であり、中国から韓国に渡った在韓華僑のチョン・チョンやジャソンと、どこか似た存在でもある。
 チョン・チョンは、当然のように中国語ができて、中国という成長著しい「外」とのつながりを持ち、経済力と自由を兼ね備えた人物として描かれている。一方で、延辺の物乞い達は、汚らしい服装で、周囲から浮いた滑稽な姿で登場し、チョン・チョンたちの代わりに汚れ仕事を引き受ける。
 実のところ、在韓華僑は「世界で唯一、成功できなかった華僑」と言われるほど、社会的にも経済的にも抑圧され、差別されてきた歴史をもっている。チョン・チョンは、「あるべき姿」で愛されるために、分かりやすく作られているのであって、本当は「延辺の物乞い」とセットの存在なのだと思う。

変わった後は、要りません

 とにもかくにも、主人公ジャソンは、過去を消し去り、安寧の新世界を手に入れた。けれども、偉大な「兄」の姿は、そこにはない。彼は、世界を変えるために必要なのであって、新世界に、その居場所はないのである。世界が変わった後は、思い出の中で祀られる祖霊と同じなのだ。
 会長の椅子に座ったジャソンが、最後にタバコに火をつける。ジャソンのタバコに火がつくのは、劇中で初めてのことだ。線香のように立ちのぼっていく煙のなかで振り返る、6年前。ヤクザに潜入したばかりの、若かりし「兄」との仲良し映像である。喪失後だからこそ、振り返ることの許される「あったらいいな」の世界だ。

「世界が変わるところが観たい」

 そんな観客の欲望は、すでに満たされて、お腹いっぱいだ。「変わる」ことこそが重要で、「変わった後」は求めていない。続編がつくられる、という話も耳にした。DVDの未公開映像には「後任」というエピソードも入っている。けれども、この世界に続きは必要ない。
 世界が変わる。「兄」がいなくなる。この物語は、それで綺麗に、お仕舞いなのである。


※ 劇中のセリフは、DVDの字幕から引用。

参考:
1. 花方寿行『韓国映像文化にみるアイデンティティ改変の誘惑:カン・ジェギュ作品を中心に』(2015年3月)
2. 李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム「抵抗とナショナリズム」批判』(作品社、2007年8月) 
3. WE ARE BORN『映画『新しき世界』 アウトサイダーが作る「新世界」』
     序論 (2014年10月11日)
     第一章 新しき父系社会 (2014年10月11日)
     第二章 ジャソンの選択 (2014年10月11日)
     結論 (2014年10月11日)