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中動的ディレッタンティズム:年始のノート

連綿として、なのに唐突で、理不尽で、滑稽で、自由な日々だ。
型にはまれないくせに、突出することも、継続することも苦手だ。
(中略)
臆病なつまみ食いから見えてくることもあると、いつか笑えるだろう。
それまでには1年どころではなく、長い時間が必要だろうけれど。

ざらついた言葉:年始のノート(2023.1.1)

2023年の元旦に絞り出した言葉は、今思えばそんなに的外れでもなかったかもしれない。

「好きなことを続けていれば落とし所が見えてくる」という、かつて人からもらった言葉をそのまま抱きかかえ、「自分は継続ができない人間だから」と唱えては劣等感を覚え続けてきた。何者かになりたい私にとって、熱中できるものも、覚悟も、継続力もないことは大きな問題だった。

2023年は、ある意味でそれが極まり、転換した年になった。つまり、「続けられない」という状態は続いているのではないか、という屁理屈にたどりついたのだ。

散漫な興味をそのままに、多様な人に会い、多様な場所に行き、多様な話をした一年だった。自らそのように努力したと言うよりも、そのように恵まれていた。それはなにも2023年に限ったことではなく、生まれてこの方ずっとそうだった。
そういう状況を素直に喜び始めると、「何者かになりたい」という、幼稚だが切実な欲望にも、現時点での答えが出てくる。学生時代の恩師に教わった、好事家――ディレッタントという「蔑称」を、今更思い出した。肩書を欲しがって駄々をこねる、しかし自尊心は妙に低い自分のおしゃぶりにはちょうどよい。

私は駆け出しの好事家(!)として、無責任に散乱した関心、経験、情緒について書き、それらを統合しようとする。書くプロセスによって、事物と事物が、過去の私と今の私が、続いていることを確かめる。

ところで、自ら奮起するのでも誰かに強いられるのでもなく、無意識に、自ずとそうなってしまうことを、故郷の方言では「〜さる、らさる」と表現する。例えば、意図せずになにかのボタンを押してしまったときには「ボタン押ささった」、減量中なのに食べるのをやめられないときはときは「ご飯食べさって困る」など。無責任で、同時に優しい言葉だと思う。文法的には、能動と受動の間、中動態と呼ばれるところだ。

続けることができない私にも、誰にでも、生きている限り、続いている、続かさっている経緯がある。それをただそのまま認めていいと、ようやく思えるようになってきた。

こうして、一旦は己の現在地を「中動的ディレッタンティズム」と呼んでみることにした。もっとも、このようなあり方は、種々のアーティストやその卵、その手前にいるモラトリアムを集める京都に暮らしたからこそ辿りつけたものだろう。
今年は京都を離れて暮らす。中動的ディレッタントは田舎をどう楽しむことになるのだろうか?


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