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手始めの段階では心地の悪い豊かさ、それは真実味を帯びている。

書かなくなったのは、書くことが必要でなくなっていたから。それをいっときは、成長と勘違いもした。私の人生に書くべきこと(あるいはそうでないこと)はなく、書きたい主体(あるいはそうでない主体)がいるだけとわかる。
書かない間は、北国特有の、春から夏への激しい変化に追われていた。季節のうつろいを感じて生きることは、明るく心地の良い豊かさのように語られるけれど、相当厳しいことだと思う。指先からつねにこぼれ落ちていくような時間を、誰もが死に向かっていることを、わざわざ五感で確かめるのは修行だ。厳しい、手始めの段階では心地の悪い豊かさ、というものがある。それらは真実味を帯びている。

一年草は花をつければじきに枯れてしまうことを、どうして理解していなかったんだろう。お気に入りのハーブにできるだけ長く緑を保たせるため、蕾を摘み取ったり潰したりしているうちに、嫌になった。ガーデニングが営利であることすらよくわかっていなかったのだ。そのうち、蕾を潰すのをやめた。ディルの葉を楽しめた期間は短く、ルッコラの葉はついに一口も食べないまま、1メートル近く茎を伸ばし、花を咲かせ、やがて大量の小さな豆のような種をつけた。親指ほども太くなったディルの茎はしかし変わらず香りが良く、煮込みやピクルスの香り付けに使える。ディルもルッコラも種まで食べられるし、もちろんうまく集めておけば来年また撒くこともできるだろう。私は小心者で、植物の貫禄に教わる。私が日にふたつやみっつ蕾をつまもうが、そんなことでいちいち枯れたり病んだりしない。彼らは個体ごとの命に執着していないようにみえる。 

スー・スチュアート・スミス『庭仕事の真髄』は、メンタルヘルスに対して庭仕事が与える良い影響について記した書だが、ガーデニングの破壊性に冒頭で触れていたことに最も安心した。
傷ついた心には土仕事が良いと、あまり能天気に吹聴するのは気が引ける。人間中心的な目的で、その地面には今は生えていない植物の種を撒き、ときに環境を変えたり、破壊したりする。こういう事を考えているときは、スーパーマーケットで支払う代金とは、自分が生きるために自分で手を下すべきだった、破壊行為の委託料のように思い込みすぎたりする。
だが破壊を含む庭仕事・畑仕事において、状況のすべてがコントロールできるわけではない。むしろおそらく、コントロールできることのほうが少ない。そして人間だけではなく、どの生き物も、コントロールできない世界を、自分のために生きている。

久しぶりに北海道に暮らして、特に爆発的な春にはそれを味わうことに夢中になり、書くことも読むこともくだらなく思えた。そのとき植えた草の一生がもう終わりつつあるのを察してから、突然、生活ごとすべてが虚しく思えて、季節が嫌になった。また唐突に書き始めて、書くことも厳しいなあと思い出したところだ。けれども今は、単に手触りの良い豊かさを、あまり信用していないから。

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