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生きる

初盆。

意識してというわけでも、見れないわけでもないのだけれど、母が亡くなってから母の写真は遺影しかみていなかった。8月12日、iPhoneの機能がさりげなく、母がまだ母らしい姿だった時の写真を見せてくれて、気づいた。

今日会社でiAPCという言葉を知った。
「もしも、今日余命半年といわれたら」といったようなシーンを想定して、自分の生きるうえでの価値観を自分に問うもの。そして家族や身近な人とそれを共有する時間をつくること。




我が家は、明言化されていないものの「自分のことは自分でする」というおうちだった。
病気も怪我も縁の遠かったところにいきなり母の余命宣告。わたし達は、頼ることを知らなかった。誰に何を聞いたらいいのかわからなかった。
かなしんだほうがいいのか、奮い立ったほうがいいのか、死に向かって生きるのか、生きることに向かって生きるのか。

見つかったがんが、100000人に5人の稀少がんだったこともあって、お医者さんもお手上げのような状態で、自分たちでできる事を頑張るしか思いつかなかった。

今薬局に勤めるようになって「こんな風に専門家に相談してよかったんだ」という事を、かかりつけの患者さんたちの姿をみて思ったことを何となしにボスに話した。

母の意思を尊重し、さいごのさいごまで家で看取れたことは私たち家族の気持ちをギリギリで支えている。そして、あれ以上の母の姿を毎日目にすることはわたしも辛くて耐えられなかった。すい臓がんは、最後は想像を超える痛みから、麻薬の処方が桁外れに飛び上がるから、薬局としてもかなり在庫管理が難しい病気だということを、後々薬局に勤めはじめてから聞いた。

「…だからね、美樹さん(母)が美樹さんの希望どおり最低限の処方でそのまま亡くなったのはお医者様もびっくりされてたんだよ」と。

逝くべき時に逝った、そうとしか思えない。

それでもずっと、ずっと「頼ることができない自分」と「さいごまで弱音をはかず、頼ることもしなかった母」が誇りであり、ただただ悔しかった。だからいけないんだ、こんな人生真っ暗なんだって。心のなかでずっしりと。
母のピンチに、いろんな恥も鎧もかなぐり捨てて変わったつもりだったけれど、クセってなかなか抜けない。

自分の経験から、そしてひすいこたろうさんの「明日死ぬかもよ?」の本を読んでからずっとやりたいなと思っていた「死」について「生きる」について、自分に問うてみたり、親しい人と話してみる、ということをいつかやりたいんですよねとボスに話した。

「生きる」が当たり前だったわたし達は、突然の「死」を差し出されても、今さら「どう死に向かいたいか」なんて、母には聞けなかった。母は亡くなる前日も、たまたま遥々来てくれた親戚に「今から元気になるところだからこんな姿見せたくない」と帰したくらい、さいごの、本当にさいごまで死ぬ気がなかった。



そんな1日を終えて、うろうろした気持ちをちゃんと元に戻そうと、瞑想して、「ああ、そうか」って腑におちた。全ては完璧だったんだ。たとえ、2年前に戻っても私たちは同じ事を同じように選ぶ。
だからこそ、全て経験してきたからこそ今のわたしがいるんだった。
今がありがたくて、いつまで一緒に過ごせるかわからないさんたが可愛くて、きざみつけるように生きている。母にとってわたしも可愛い存在であったのなら本当に生まれてきたことが嬉しい。歓びのきもちでお金をいただけるお仕事と、たくさんのたくさんのありがとうという言葉。

一つごっそり荷物をおろせた。今日は記念日。


昨日、11日にお花とたくさんの非常食、さんたへのプレゼント、手紙を持って母のお友達が来てくれた。

からだはなくなっても、愛はずっとずっと続いていると思う。

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