その時はまた、おにぎりを餅になるまで揉んでやればいいのだ。

 今朝、久しぶりにおにぎりを握った。
 昼食分を握って、朝食のぶんを余分に握った。朝は一個で十分かなと思ったけど、食べたら少し物足りなかった。だから僕は小さい、ゴルフボールほどのおにぎりを作った(夕飯の分は残しておきたかった)。
 基本、僕は柔らかめに握る。冷めれば固まるが握りたてでは崩れてしまう、そんな具合に。しかしゴルフボールサイズとなると加減が分からず、僕はそれを餅のようにしてしまった。
 餅になるまで握られたおにぎり。
 ふと、かつての光景が脳裏に蘇った。
 地区を一望できる高台。
 瓦礫だらけの町。
 おにぎりを手に持った、坊主頭の少年。

 これは、昔の思い出。
 僕らが餅になるまでおにぎりを揉んだ、あの日の話だ。

   *   *  *

 こーちゃん、と呼ばれていた友人がいる。
 同級生の中で最も家が近く、僕達は幼稚園の頃から一緒に遊ぶ仲だった。互いの兄同士も同級生で家族同士の縁が出来上がっていたこともある。幼稚園の頃はもう一人そのこーちゃんと同姓同名の子がいて、彼らはそれぞれ身長で「でっかいこーちゃん」と「ちっちゃいこーちゃん」と呼ばれていた。僕の話すこーちゃんは、でっかいこーちゃんだった方である(小学校に上がる時に仙台に引っ越したちっちゃいこーちゃんは、数年後再会した時にでっかいこーちゃんより大きくなっていた)。
 どちらの兄も野球をやっていたこともあり、僕達も小学校に入ってすぐスポーツ少年団に入団して野球を始めた。運動神経抜群でスポーツ大好きなこーちゃんはばりばりと上達していったが、僕と言えばやらされているという思いが拭えず、低学年の頃は試合中にも関わらず外野で草弄りを始める始末だった。
 練習のない日は、他の同級生と共にゲームで遊んだ。ほとんどはガキ大将のS君の家に集まるということが多かったが、友人らの中でWi-Fiがある数少ない家だった我が家でドラクエ9をやったこともある。ただ我が家は小学校の目と鼻の先にあり、離れた地区に住む人は移動の手間がかかる、という点からメインの遊び場とはならなかった。
 思えば、閉じた世界だった。
 僕の地元は田舎である岩手のさらに田舎な場所で、1学年の人数は15人前後しかいなかった。今はもっと少ないだろう。そんな人数では当然クラス替えなど存在せず、顔を合わせる面々はそのまま、ただ学ぶ場所ばかりがズレていくだけだった。野球を続けていたのも、他の選択肢が卓球しか存在しなかったからにすぎない。
 ネットなんてのもYouTubeがサービス開始したばかりで今のようなYouTuberはいなかったし、どちらかというとFLASHの動画ばかり見ていた記憶がある。話す話題はゲームかまだアナログ放送だったテレビ番組ぐらいだし、チェーン店とか本屋とか、面白いものがある店は山の向こうの街にしかなかった。あったものなど、駄菓子屋だけである。
 猫の額ほどの平地、もしくは斜面にだけ住宅の並ぶ、小さな漁師町。
 生まれた時から過ごしてきた、閉じた世界。
 今まで、ずっと変わらなかった。
 だからきっと、これからも変わらない。
 小学校卒業が近づき卒業式の練習をしていたその日も、僕は心のどこかでそう思っていたような気がする。肌寒い体育館でストーブの音に耳を傾けながら、昨日アンテナを交換してついぞデジタル放送が映るようになった我が家のテレビに思いを馳せる。
 2011年3月11日、午後2時46分のことだった。

   *   *  *

 全校生徒が学校に残っている時間帯だったのは、不幸中の幸いだろう。僕達はこれまで何度も避難訓練で登った坂道を駆け上がり、高台にある神社の境内に避難した。近くの漁協にいた生徒の親御さんが駆け付けて「絶対津波来るから急いで避難させろ!」と先生達に怒鳴っていなければ、僕達は今頃生きていなかったかもしれない。
 そうして逃げた高台から、後に東日本大震災と名付けられる災害の、最も被害を及ぼした津波を見ることになった。
 波というより海面上昇にしか見えないそれが、海岸沿いにある野球グランドを覆い、防風林だったのだろう松林を上半分だけしか見えなくする。そして、名称通りの機能を発揮することは無いだろうと思っていた10メートルの防波堤を易々と越えた。
 小学校は、防波堤に最も近い場所に建てられていた。
 そして学校の目と鼻の先にある我が家もまた、防波堤に一番近い家だった。
 同級生のうち、半分近くの人が津波で自宅を流された。
 ただその中で自分の家が流されるその瞬間を見続けていたのは自分だけだった。第一波で一階が水の中に消え、引き波の後に押し寄せた第二波で屋根しか見ない状態のまま流されていった。
 そこにずっとあるもの、いつまでも変わらないものと思っていた世界が、水に飲み込まれる。12年間ずっと暮らしてきた町が流されていく光景に、僕は祖母と手を繋ぎながら、これが世界の終わりなんだなと思った。

   *   *  *

「本題はまだ?」という人がいることだと思う。申し訳ないが、この文章は震災から10年という節目に備忘録として書き残しておこうという兼ね合いもある。なのでもう少しばかり前置きを。
 安否については、家族全員無事だった。小学校にいた自分と祖母は前述の通りで、中学校にいた兄はそちらの方で高台に避難、実家に併設する美容室で働いていた母、実家にいた祖父母、そして近くに勤めていた父方の祖父は揃って避難していた(『濡れたら困る』とコタツの掛け布団を上げて避難したら家ごと流された、というのは今では笑い話だ)。離れた市に稼ぎに行っていた父は三日ほど連絡が取れなかったが、線路の上を歩いたり行き先の同じ人の車に乗せてもらったりなどして帰ってきた。泣きながら父を抱きしめる母を見たのは、後にも先にもその一回限りである。


 こーちゃんと二人でおにぎりを食べたのは、確か震災の翌日か二日後である。少なくとも父が帰ってくる前には違いない。
 最初に避難した神社は避難所として利用され、家を流された近隣住民が避難していた。そしてそこで住居の目処がつくまで過ごすことになっていた同級生は、僕とこーちゃんの二人だけだった。こーちゃんもまた、家を津波で流されていた。
 近隣の無事だった人達が、まだ次に手に入るかも分からない食糧を提供してくれた。それでも数十人に分配するものだから、数は限られる。小学生ということで僕達は優先的に食べ物をもらえたが、それでも朝に手渡されたおにぎり一個が、その日の夜までに口にできる唯一の食べ物だった。
「なんか食べるのもったいないなぁ」
 口に出して言ったか定かでないが、そう思っていたことは確かだ。ともかく僕らは、そのおにぎりをすぐには食べず、大事に手に持っていた。
 ラップに包まれたそれを手に持ったまま、避難所を出てふらふらと外に出る。
 端的に言って、暇だった。
 電気が無いし、テレビも見ることができない。DSを筆頭とするゲーム機は累計数百時間のプレイデータと共に海の藻屑と化した(我が家は百メートルほど離れた斜面に二階部分だけとなって残っていたので、正しくは瓦礫の下かもしれない)。中学の部活に向けて新しく買ったばかりのグローブも無くなった。漫画も、釣り竿も、お気に入りの木刀も、山で拾った良い感じの木の棒も無くなった。あったものといえば、兄が迷いなく二階のタンスから抜き出してきた兄弟のお年玉貯金くらいのものだった(それはもう真っ先に見つけてきた)。こーちゃんの方でいえば、飼っていた文鳥や烏骨鶏たちは、籠や小屋に入れられたまま逃げることもできずに流されてしまったはずだった。生き物は特に悲しいと思う。
 当たり前に在り続けてくれると思っていたもののほとんどが、たった一日で変わり果ててしまった。震災当日の晩、祖母が避難の時に持って来てくれたコートを被って眠りにつくその瞬間まで、夢であることを願った。そうでなければ意味が分からなかった。
 惰性で歩いていくうち、僕達はとうに役目を終えた山道を登り始める。片側は崖になっていて、ガードレールの下にちょうど小学校が見えた。
 夢としか思えない出来事の全ては現実で、目の前に広がるのは、瓦礫が散乱し未だ水が引き切っていない町と、窓が全て割れ三階の屋上に汚れた海水が溜まる小学校の校舎だった。
 そして僕らが手にしているのは、唯一の食糧であるおにぎりだけだった。
「……これさ」
 ふと、こーちゃんが話しかけてくる。
「めちゃくちゃ握ったら、餅になるのかな」
 小学生みたいな、もとい小学生の問いに、同じ小学生は頷く。
「やることないし、餅にするか」
 そうして、僕達はおにぎりを揉みまくる。
 昨日まで家のあった場所を遠目に見ながら、僕はぼんやりと考える。

 家が無いな。
 でも、僕は生きてるな。
 小学校が壊れちゃったな。
 でも、僕は中学校に通わなきゃいけないんだな。
 色んなもの、無くなっちゃったな。
 でも、僕は生きなきゃいけないんだな。

 ある日突然、当たり前だと思っていたものが全て消え失せてしまうことがある。それが天災によるものか事故なのかは、実際にそうなるまで分からない。夢じゃないかと思うし、このまま世界ごと終わっていいんじゃないかなと思うこともある。
 けれど世界はしぶとくて、自分の知る範囲がいくら変わり果てようとも、他はそこまで変わってなくて、そんな状態のまま、前へ前へと進んでいくようにできていたりする。

 ラップを捲り、表面の米粒が一体化したおにぎりに齧り付く。
 今まで食べたどのおにぎりよりも密なおにぎりは、それでもまだ餅にはほど遠い食感をしていた。中に硬い食感を見つけると、それから塩気がする。たくあんだった。
「どう?」
「まだ餅になってない。あとたくあん入ってる」
「じゃあもうちょい握ろ」
 そう言って、こーちゃんはもみもみを再開する。僕も再びラップで包み直し、食べて欠けた場所を直すようにおにぎりを揉む。僕よりも丁寧に丁寧に、こーちゃんはおにぎりを揉む。
 僕達は家や色んな物を失い、そしておにぎりを手に入れた。
 このおにぎりは僕らの、今日これからを生きていくための最初の糧となる。揉むことにはまぁ、意味は無いけれど……それでもこうして手にしたものを大事に大事にしていくことこそが、きっと生きていくことなんだ。

 あの日から十年の時が経ち、僕らは大人になった。僕は大学生となり卒論を仕上げるのに疲れ果てているが、こーちゃんは高校卒業後就職してばりばりと働き、彼女もいると聞いている。僕よりも丁寧におにぎりを餅にできる彼なら、きっとその相手のことも大事にしているのだろう。
 僕らはこれからも、新しいものを手に入れたり、時に失ったりしながら、大事に大事に揉んでいくのだろう。もしかしたら、いつかまた全て無くなってしまうのかもしれない。ノロウイルスに負けて同じ日に入院するかもしれない(避難所生活の頃の話)。
 もし、もう一度多くのものを失ったのなら。
 その時はまた、おにぎりを餅になるまで揉んでやればいいのだ。

「あっ、そういえば」
 こーちゃんがポケットをまさぐり、小さなものを取り出す。
「ガムもらってたんだけど食べる?」
 包装紙を見て、僕は笑う。

「おにぎり食ってる時に言われてもなぁ」

〈了〉

昼食のおにぎり(揉んではいない)。

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