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セガの帰還:米国逆上陸の日々

セガもオフィシャル的には創立60周年なのだが(諸説ある)、その中で妙にバタ臭かった時代があり、その辺のセガは俺はたまらなくかっちょいいと思うのである。

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米国コングロマリットのガルフアンドウエスタンインダストリーズ,インク.の傘下に入る”とか、もう文字だけでムラムラする。きっとロボコップのオムニ社みたいなビルなんだと俺は思うね!

そんな60年の歴史の中には、セガ/グレムリンという歴史が残っている。俺の中ではアタリと並ぶ”口に出してカッコいいゲーム会社名”なのだが、日本ではそんなにメジャーではない歴史でもある。ただ、米国のフロッガーの筐体にバーンとロゴが乗っているので、米国では日本以上にこの名前を覚えている人が多いのである(主にオッサン)。

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グレムリン社は本来はGrindleman Industriesだったのだが、従業員が呼び方を間違えてグレムリンと言ってしまい、そこからこの名前になったそうである。水をかけて分裂したグレムリンが、電子レンジで爆発するあの映画とは関係ない(たぶん)。

このグレムリン社は語ると多分一冊の本ができると思うので、みんな調べてくれたまえ!


さてその60周年に話を戻すが、どうしても海外セガの昔のことは、日本みたいにバーンと大鳥居にずっと建ってたわけではないので諸説あるし、とてもわかりにくいのだが、ここは珍しく家庭用ではない、米国アーケード業界の雑誌で小さな記事に取り上げられていたので、ちょっと訳してみることにした。

特段凄いネタが入ってるわけでもないし、ちょっと日本語がおぼつかないが、翻訳は素人だから許してくれ!

この曲を聴きながら読むと楽しいぞ!

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セガが米国に上陸した日

もちろん、ほとんどの人はセガを日本の企業だと思っていると思うが、実際には1950年代、東京で活動していた日本人ではない外国人ビジネスマンたちよって創立された会社だ。彼らの業務活動である店舗運営、娯楽機器輸入と販売、最終的には製造までが統合され、1960年には正式に「SEGA」と呼ばれるようになったのだ。

セガの創立には、マーティ・ブロムリー、ディック・スチュワート、レイ・ルメール、スコット・ドッデラー、そしてブルックリン出身のデビッド・ローゼンなどが関わっている。当時、アメリカのコインオペ業界には、すでにフィラデルフィアにデイブ・ローゼンという名の著名な人物がいたので、業界人は彼を”セガのデイブ・ローゼン”と呼び分けをしていた。デビッド・ローゼンは60年代後半にペリスコープという、巨大な筐体の潜水艦ゲームをアメリカに持ち込んだことで有名になり、米国でセガといえば彼、という位置づけだった。

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ここでお祝いの言葉をかけている人が、ここに出てくるセガのデイブ・ローゼンさん。


私は当時、業界紙『キャッシュ・ボックス』誌で働いていた。オフィスはニューヨークのブロードウェイにあり、近くのゲーム・センターから坂を登ったところに位置していた。私がそこに運ばれたペリスコープを見て最初に思ったのは、こんなバカでかいモノを、どうやって箱に詰めて日本からはるばる運んでくるんだろう、ということだった。

しかしその当時、私はこの先何十年もの間に、どれだけのセガのゲームが米国に輸入されていくのか、全く想像もしていなかった。


デビッド・ローゼンは多才な人物だったが、その才能の一つにマーケティングのセンスがあった。彼はこのペリスコープを驚くほどの数を販売しただけではなかった。彼は米国のゲームの多くが1プレイ10セント(ダイム)で、20セント入れると3プレイできるという設定が主流だった時代に、1プレイ25セント(クウォーター)で、50セント入れると3プレイという設定を考え出して広めた。

これはもともと、複数クレジットでボーナスプレイがつくというのが、ピンボールとかの伝統であったことから由来する。アーケードゲームでプレイ料金を値上げすると言うのは、簡単そうに見えて相当難しい。

1973年にセガが初めてのビデオゲームが発表し、その値段設定は25セント・1プレイという料金設定が始まった。そしてそう、その数年後にセガ・モナコGPドライバーがその設定だった。ペリスコープと並ぶ”日本製”ゲームのヒット作だ。


セガは1980年の初め頃、サンディエゴにあるグレムリン・ゲームスという、ウォール・ゲームのメーカーを買収し、アメリカに製造拠点を設立した。グレムリン社は「ブロッケード」と呼ばれる、迷路を作り上げていくようなゲームの開発で有名な会社だった。

ウォールゲームはミッドウェイも参入していて、飲食店の壁なんかにかかっていたそうである。かなりグッとくるジャンルである。


その6月、セガは米国のディストリビューター達をサンディエゴの工場に呼び、新作のシューティングゲーム『カーニバル』をアップライト筐体と共に発表した。その会見中でローゼン氏は、このビデオゲームの "ゴールドラッシュ "はアーケード業界でもはや揺るがない状況なのか、それともただの瞬間風速なのか、と質問された。

彼の答えは、典型的な日本の長期的ビジネス思考ともいえるコメントだった。

"ここにいる人たちは、今ビデオゲームのビジネスが絶好調であるということに同意する人しかいないと思います。しかしこのアミューズメント業界というものはサイクルを繰り返す業界であり、やがてピンボールも強く復活してくるということも忘れてはいけません。今、私たちの目は、1980年、1981年の業界を通して、このビデオゲームのビジネス状況を、そしてこの好ましい状況をオペレーター間でどう維持するかに向けております”


アーケード業界はやがてビデオゲームが支配するようになった。セガはグレムリンのウォールゲームの生産開発をやめ、代わりに「ザクソン」などのアップライト筐体を生産ラインに投入していった。グレムリンのブランド名は影をひそめるようになり、80年代半ばにビデオゲームのブームがひと段落すると、サンディエゴの工場も閉鎖となった。

実はザクソンは、一般テレビCMが作られたアーケードゲームとして有名である。

一方、その時代にもセガにはビデオゲームでのヒット作を供給していた。

最終的にはセガはドライブゲームのコックピット筐体*や「ハングオン」のようなバイク筐体など、よりデラックスなものへと変化することとなった。このような大型ビデオ機やプライズ機が、現在の同社のラインナップの大半を占めることとなっている。

*多分時代的に、おそらくGPワールドのことだと思われる

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記事には書いてないその後だが、結局グレムリン・インダストリーズはピンボールで有名なバリー社にセガが売却してしまい、その名を閉じることになる。

その後大型筐体までの道のりは日米ともに似たようなアーケード業界だったのだが、90年代後半あたりから日米は大きく枝分かれをしてしまうのである。まあそれはそれで、また別の話で取っとく。

本当は、俺がこの国に居る間に、英セガ・アーケードとかスペインあたりのことを調べたいのだが、英セガはまた、米国以上に複雑怪奇な構造になってて、かなり資料発掘は難しいんだなこれが...。

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