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私の好きな人 1

秋らしい和やかな朝の光が無人のオフィスを柔らかく包み込んでいる。いつも通り誰も出社していない静かなフロア、その南東側に法人営業部のエリアがある。窓側には二人の部長の大きなデスクが、そしてそれぞれを起点に楕円を描くように各営業チームのデスクが並んでいる。椅子にバッグを置いたらPCを起動し、引き出しから拭き掃除のシートを取り出す。私の日課、それは、朝イチで部長と同僚のデスクを拭くこと。新卒の頃から続けている習慣だけれど、多分、誰一人としてそのことに気づいていない。全員のデスクを拭いたらやっと席につきメールチェックだ。カタカタとPCを打つ音が広いフロアに響くのが私は好きだ。朝の始まりを唐突に告げるオンドリとは違って、まだ眠っている空間を静かに目覚めさせる優しい音。そして、ひとりふたりと社員が出社すれば独奏が二重奏、トリオ、カルテット…と増えていき、いつの間にか静かだったこの空間にはコピー音、電話音、笑い声などありとあらゆる音が響くようになる。私にとって会社の朝はまるで独奏から始まる交響曲のようだ。それに、いつも私と二重奏を奏でてくれる人は、もう5年も片想いしているうちの部長、ホソクさんだ。

「あーれー?今日は部長お休み?」

白髪混じりのベリーショートと恰幅の良さのせいで一見おじさんにも見えてしまう法務部の田中さんがキョロキョロと困ったように立っている。

「部長はシンガポールに出張中で戻るのは金曜です」
「やーねー。困っちゃったなぁ」
「どうしました?」
「これね、A社のNDAのドラフトなんだけど、ほらここ、細か過ぎてわかんなくてちょっとホソクくんに聞こうと思ったの」
「あぁ…」

困っている私に気付いたのか背後の席のソクジンが私たちを上から覗いた。

「A社のNDAですよね?ちょっと見ても良いですか…」

田中さんは資料を渡し、悪戯っぽく笑みを浮かべる。

「ここのプロセスですよね、わからないのって」
「うん!そう!わかる?やってもらえるぅ?」
「はい、念のため部長にも確認して後でファイルに修正入れて送ります」
「いやーん!助かるぅ!」

田中さんはしなを作って頬に手を当てわざとチュッチュッと音を立て去っていった。ソクジンは困ったように頬に猫のひげみたいな線を作って苦笑する。

「大丈夫?」
「うん、A社の案件なら俺も知ってるから」

私たちは同期だ。だからこの程度の少々ぶっきらぼうなやりとりで会話を終えても問題がない。それに、彼は女性社員たちから人気があり過ぎて長くおしゃべりしようものなら無駄に敵を増やしてしまう。お互いに目で「ありがとう」「OK」を伝えて私たちはまた背を向けてデスクに向かった。

不在のホソクさんを訪ねる他部署の人の数も彼宛にかかってくる電話の数も尋常じゃない。多分、他部署の部長ならそんなことはないはずだ。ホソクさんは特別だ。今だって、隣のチームの目標達成が危ういからと部長自ら数字を作るためにシンガポールに飛んだのだ。私の憧れであり尊敬の対象であり5年も恋心を抱いているホソクさんは、そんな人だ。

これを知られたら多分引かれてしまいそうだけど、私がホソクさんを好きになったのは新人研修の日だ。「各部署について学ぶ」みたいな時間に法人営業部の代表としてやってきたホソクさんは、その前年に日本支社として歴代最高の営業成績を上げNY本社から表彰された凄い人、と人事に紹介された。その時のとても恥ずかしそうに笑う姿は私の想像する「デキる営業マン」とは大きく異なり印象的で、私はすぐに好感を持った。それに、他の講師よりも圧倒的に若くエネルギッシュで、講義の50分が一瞬に感じられるほどワクワクさせられた。「これから俺たちも会社に搾取されるんだぜ」なんて悲観的なことを言っていた同期も目をキラキラ輝かせたほどみんな引き込まれた。あの日から私はまるで手の届かない有名人に憧れるようにホソクさんに恋している。

NYに留学していた私はボストンで開かれたキャリアフォーラムでこの会社への就職を決めた「留学組」だ。それが影響したのか当初はマーケティング部に配属された。マーケティング部は留学組が多く、女性比率が高く、華やかな部署のように思われているがその実雰囲気はギスギスしていた。コンペティティブなアメリカの雰囲気から逃れたい思いがあって外資とは言え日本にあるこの会社へ就職したというのに、私は女同士のマウント合戦が日々繰り広げられるその部署での生活に疲弊した。それで、二年目に突入する前にダメ元で法人営業部への異動願いを提出し、幸運にもそれは受理された。

「あの…先輩、ちょっといいっすか?」

心細そうな声がして振り返ると新人のグクくんが申し訳なさそうに立っている。

「ん?どした?」
「これ…契約書が全部英語で、ちょっと、てか全然わかんないんっすけど、先輩ならわかるかなぁと思って」

ホソクさんはグクくんのことを「黄金新人」と呼んでいる。確かに彼は全身からやる気が漲っているタイプで、言葉遣いや身なりが軽い割に礼儀正しく努力家で、事実、新人でありながら巨大な契約を取ってきた。私が去年死ぬほど頑張って表彰された時の契約の倍額だ。今年、目がキラキラ輝くこの新人が表彰されるのは確実である。

「うん、後でになるけど、いい?」
「はいっ!」
「念のためファイル送っといて」
「あざーっす!!」

グクくんは…得なキャラだ。でも、要領の良さとか調子の良さとか甘え上手は確実に営業の武器になる。その武器の使い方を誤らなければ相手を困らせるのではなく、喜ばせて、笑顔で契約書にサインしてもらえる。グクくんはその辺の能力が天才的だ。

・・・

「まだ終わんないの?」

振り返るとソクジンが帰り支度をしている。

「ん、もうすぐかな」
「そっか。俺、先帰るね」
「…もしかして、これからデート?」
「えっ、なんで」
「なんか嬉しそうだから」
「そう…か?」
「ふふ。お疲れさま」
「おう。お疲れ」

ソクジンはいつだってわかりやすい。ここ最近表情が明るくイキイキしているし、いつも客先から戻ったらすぐにネクタイを外してそのままラフに帰る癖に、さっき彼の首元には綺麗にネクタイが結ばれていた。そもそもさっき私の質問に耳を真っ赤にしていたし。私の読みは当たっているようだ。

・・・

『ぐぅぅ』

一日の終わり、また静寂が訪れたオフィスでお腹の音が密やかに響く。ああ、今日も私はひとりご飯だ。ふと、昔残業した時にホソクさんが下のコンビニでおでんを買ってきてくれたことを思い出して、私はその時の優しい笑顔を思い出しながらホソクさん不在の席を眺めた。どんな時も整理整頓されて綺麗で、最新の文房具やオフィスグッズがいち早く導入されるシゴデキ男のデスク。私はふーっとため息をつく。新卒ほやほやで恋した人の部下になってしまったがために、関係を発展させることができないままこんなに月日が経ってしまった。私にとってホソクさんは世界で一番大好きな人だけれど、一緒に働くことで尊敬とか感謝とかそういった尊い感情が重なりすぎて、まるで遠い推しを想うような気持ちばかりが醸成されてしまった。もはや自分の恋を実らせようというパワーを失ってしまった。好きな人のそばにいることを生き甲斐に、私はこのまま若さという武器を失い適齢期と言われる時期も過ぎてしまうのだろう。彼はいつか異動したり転職したり、もしかしたらどこかの誰かのものになってしまうかもしれないのに。もしそうなった時、果たして私は生きていられるのだろうか。

(続く)

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