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どこかで、聞いたような話③

シンママにとっての一番の恐怖は子供の急な体調悪化だ。ただでさえ可愛い子供が夜中に発熱すれば心細いのに、それを一緒に心配してくれる人がそばにいない。そしてそれは翌日のスケジュールにダイレクトに響いてくる。

シュウが夜中に突然吐いた。熱を計ると38度以上ある。坐薬は使ったがずっと苦しんでいる。夜間診療している病院は遠く、このまま様子を見るかタクシーを呼ぶかで迷っていた時、ホソク先生の優しい笑顔が思い浮かんだ。

ホソク先生は息子のかかりつけ小児科医だ。医療に対しても患者に対しても真摯で子供に優しく、それだけでも出会えた奇跡を感じるというのに、彼は私の兄の高校時代の友人なのだ。もうだいぶ通い慣れた頃にこれを知った時は本当に驚いたものだ。一度兄が赴任先のマレーシアから帰国した際にはホソク先生も呼んで家族で食事したこともある。その時に「何か困ったことがあれば」と連絡先を貰っていたのだ。

もうすぐ0時だ。迷ったが、電話をかけた。

「も...しもし...」

明らかに寝ている人の声だった。

「ホソク先生、こんな遅くにごめんなさい。村崎です。村崎亮司の...」

「アミさん?...どうかしましたか?」

「息子が急に吐いて発熱して...ごめんなさい、私、ホソク先生の顔が思い浮かんでしまってこんな時間に電話してしまいました。ごめんなさ...」

「今から行きますね。落ち着いて待っててください。大丈夫ですよ」

15分後くらいだろうか、すぐにホソク先生はやってきた。髪は寝癖がついたまま、急いできたらしくシャツの襟が曲がっている。丸メガネをかけて医者らしい大きなバッグを持っている。私の説明を聞きながらテキパキと道具を出して診察をしていく。

「大丈夫ですよ。心配だろうけど、熱も下がってきてるし、うまく寝れたみたいだし、朝になれば少し元気が出ると思います。明日また診せてください」

「ありがとうございます。ああ、本当にごめんなさい、こんなことで、こんな時間に呼び出してしまって...」

「いいんですよ、そのために連絡先、渡してあるんだから」

先生の笑顔はパニック状態だった私への一番の薬だった。

私の表情を見て気遣ってくれたのだろうか、先生はもう少しここにいてもいいかと尋ねてくれた。それこそ、今の私が求めていたことだった。

温かいゆず茶を飲みながら、お互いに静かに言葉を交わした。先生は私が離婚したことに気付いていたようで、新しい住所を見て自分の家から近いことも知っていたそうだ。さすがプロですね、と言うと、アミさんだから特別、とウインクされた。

近所の美味しいお店だとか、シュウが最近できるようになったことなど他愛もない話題ばかりだったが、先生の優しい眼差しと時折見せる笑顔は私の心を温めるのに十分だった。ここ数ヶ月で一番ほっとする時間だった。話すことはあまりなくても、お互いに、帰したくない、帰りたくないという気持ちが一致しているように思えた。

「明日、朝の様子を見て、熱も下がっているようならうちには来なくてもいいです。家で安静にしていてください。午後の診療が終わって夕方くらいに僕、またここに診に来ます」

玄関先で先生を寂しい気持ちで見送る。靴を履きドアに手をかけたところで一度こちらに向き直り、私の腕に優しく手を当て「アミさんもしっかり寝てください」と言ってくれたその言葉、手のひらの温もり、甘い微笑に私の心は蕩けた。テーブルに寂しく置かれた、少し生ぬるいマグカップを手に取る。底に残った柚子の皮を見て心臓が痺れる感覚がした。これは子供の発熱による緊張のせいなのか、それとも...

(続く)

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