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私の好きな人 6

犬も歩けば棒に当たり、女が営業で出歩けばセクハラに遭う。しかも近頃は手口が巧妙化していたり単に好意を寄せられている場合も紛れたりするからセクハラかどうかの見極めが難しい。

広告代理店のCFOからこのところしつこく食事に誘われている。役職だけ見れば煌びやかだが、世界的広告代理店グループに所属しているというだけで社員数が100人程度の日本支社の財務担当に過ぎない。そう聞けば、肩書きの割に若いことも、百貨店のマネキンから拝借してきたようなファッションも、自慢と自虐が入り混じる話し方も全て説明がつく。彼は私の最も苦手なタイプだ。それなのに、ホソクさんのことで傷心だったからか、一時の気の迷いで彼からの「ランチミーティング」とやらのお誘いに乗ってしまった。

場所はオフィス近くの高級ホテルにある中華料理店で、一営業マンとのランチミーティングに使うには高価すぎるコースが既に予約されていた。

「ここ、来たことありました?」
「いえ、初めてです」
「良かった。でも僕もランチで来るのは初めてなんですよ。本当はここのディナーに誘いたかったんだけど」
「そんな、私には不釣り合いすぎて」
「またまた。森山さんみたいに魅力的な女性ならこういうところ、よく連れてって貰ってるでしょうに」

セオリーのスーツを身に纏い愛嬌に頼らず仕事しているつもりでも、彼にとって私は「男に食事を奢られる女」に過ぎないようだ。ホテルのディナーに誘おうとしていたその下心にも、褒めるつもりで女を貶するその不用意な言葉にも鳥肌が立った。ランチミーティングとは名ばかりで、立て続けにテーブルに運ばれる料理のおかげで仕事らしい話は着席して前菜が届くまでの数分しか出来なかった。そしてその後は彼への興味がゼロの人間にとっては無用の話を永遠に聞かされ続け、その度に「流石ですね」「凄いですね」とまるでホステスのように相槌を打った。

「次は白金の寿司屋にお連れしますよ。僕の家の近くでね、穴子が絶品なんです」

動くたびマリン系の香水がムッと鼻をつく彼は、時折ひどくいやらしい目つきで私を眺めては含み笑いを浮かべた。私は心底、ここへ来たことを後悔し、誘いに乗ってしまった自分の詰めの甘さを恥じた。

・・・

その日を境に彼から毎日メールが届くようになった。初めのうちは仕事がメインだったがその内にほとんどが業務外の内容になり、最終的には彼のプライベート番号からプライベートすぎるショートメールが届くようになった。

「ねぇ黒木さん。このメール、どう思う?」

悲しいことに、この部署で営業は私が紅一点だ。だからこういう話題で相談する適切な相手がいない。私は、価値観が合わないとわかっているはずの黒木さんに藁にもすがる思いで問うた。

「え、これ完全に口説きメールじゃないですか。しかもちょっとヤラシイ感じだし…案外モテますね、森山さん」
「モテるっていうか…これ、軽くセクハラじゃない?上手にお断りしてるつもりなのに毎日こんなのが来てて、クライアントだから変なことも言えないし…どうしたらいいだろう」
「その人独身ですか?」
「うん、多分」
「単に森山さんを好きなだけじゃないですか?CFOなら悪くない気もしますけど…もしやハゲとかデブとかですか?」
「いや、見た目はそんなに酷くなくて…普通っていうか」
「普通?部長くらいの感じですか?」

やはり聞く相手を間違った。

CFOからの口説きをどうにかかわしながらも、毎日届く"今日の僕通信"みたいなものに対応するストレスが他の業務にも支障をきたし始めた頃、出張帰りのソクジンに声をかけられた。

「大丈夫?聞いたよ、黒木さんに」

営業先から口説かれているという悲喜劇を茶化す訳でもなく心から心配しているような表情の同期を見て、早くから彼に相談すれば良かったと後悔した。

「正直、結構キツイ」
「そりゃそうだよ。キモいメールなんでしょ?」
「うん…でも何が辛いって、そのキモいメールに真面目に返事してる自分が馬鹿馬鹿しくて辛いの。なんか…色んなことに負けた気分」
「ちょうど年末だし部長に言って担当変えて貰いなよ」
「そう…か…」
「え、なんで?なんか問題でもあんの?」
「ううん、何も。ただなんとなく、ちょっと言いづらいだけ」

大好きなホソクさんとはこんな話をしたくなかった。そもそも、CFOと高級ランチに行ってしまったという引け目があったし、彼からの好意にも受け取られるメールや私のそれに対する返事を見られたくなかった。私は結局今もホソクさんのことが好きなんだと、その時はっきりと認識した。

・・・

「森山さん、ちょっといい?」

見たことがないほど冷たい表情のホソクさんにそう声をかけられたのはそれからほんの数日後だった。朝から忙しそうにしていた彼は先程内線電話で会議の延期を依頼していた。それなのに何故か、私が小さな会議室に連れて行かれた。

少しイラついたように椅子に座ると、彼は鋭い眼光を私に向けた。

「聞いたよ、xx社の件」
「あ…はい」
「まだ続いてる?」
「そうですね…短いメールだし、セクハラと断定できるものでもないんですが…」
「あのさ…森山さんは、困ってるんだよね?」
「はい…」
「変な言い方になるけど、森山さんの方には気はないんだよね?」
「はい!それは、はい。全くないです。だから、困ってます」
「…俺に相談もしないでどうしようと思ってたの」
「はい…すみません」

ホソクさんは何かに怒ったような顔で、片肘をついて壁を睨みつけている。

「近いうちにアポ取って」
「へっ?」
「担当替えの挨拶に行くから」
「あ、はい…」
「あと、今日から業務外のメールには一々返事しないで」
「いや、でも…」
「いいから。もしそんなことで怒って契約をやめるなんてそいつが言うならもうそれでいい。落としていい。数字は俺が別から持ってくるから」
「…はい…あの…ありがとうございます」
「…てか森山さんさぁ…これからはすぐ俺に言ってね。前にも言ったでしょ、もっと甘えろって」
「…はい」

CFOへの怒りなのか、こういうセクハラまがいのことが起きる社会への怒りなのか、私への怒りなのか、ホソクさんが壁に向けている眼光はひどく鋭利だ。そしてその尖った強い視線が今度は唐突に私に落とされる。私の心臓は小さく揺れた。数秒間、私たちは次の言葉が見つからないまま見つめ合い、そしてホソクさんの表情がやっと、少しだけゆるんだ。

「辛かったよな。もう、これで終わりだから」

優しい微笑みを湛え、彼は腕を伸ばし私の頭を"ポンポン"した。頭頂部から全身へ、雷に打たれたような衝撃が走り、張り詰めていたすべての感情が解けた。やっぱりこの人が好きだ。私は、ホソクさんの胸に飛び込み泣きじゃくりたい衝動を抑えるのに必死だった。

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