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私の好きな人 2

朝、鏡の前に立つと2割増に浮腫んだ顔の私がいる。はぁ。生理。いつもより重そう。目覚めた瞬間から頭も重いし全てにおいてやる気が出ない。着ようと思って出しておいたオフホワイトのパンツをクローゼットに戻し、あまりお気に入りでもない黒のスカートを憂鬱な気持ちで履く。ああ、今日はホソクさんが出張から戻ってくる日なのに。

直行で訪問したアポ先からオフィスへ戻ると、ドアを開けた瞬間に大好きな明るい笑い声が耳に響いた。オープンスペースでホソクさん、ソクジン、グクくんの3人が随分と楽しそうに会議をしている。数メートル離れた先の私に気付いたホソクさんはその長い手を上げて「おー!おかえりー!」と笑顔をくれた。私の脳はその1、2秒、ホソクさんのところへ行くか、軽い会釈と「おつかれさまです」の挨拶だけして自分の席へ行くか悩み、結局前者を選んだ。

「おつかれぃ。xx社、どうだった?」

いつもながら外出中の部下の行き先を完全把握しているホソクさんに胸がときめく。

「来年になると思いますけどいい案件作れそうです」
「おー!いいじゃーん!あ、ここ座んな」
「あ、いえ」
「ほらほら。それか急ぎの用あった?」
「いえ、ないです」
「ジンの話がさ、めっちゃくちゃ面白いんだよ。ジン、森山さんにもさっきの話」

いつの間にかグクくんは私のためにコーヒーを持ってきていて「先輩、どうぞ」とテーブルに置いた。私はホソクさんの隣に座ってソクジンの少々下世話な話を聞き一緒に笑う。この上なく楽しい時間だが、ホソクさんにとって自分がロマンチックさのカケラもない完全なる部下ポジションにいることに少しばかり切なさも感じる。

・・・

朝の予感は的中して、体調はどんどん悪化した。強めの頭痛薬でも太刀打ちできない重い月が年に1回くらいあるのだが、今月がまさにそれだ。こめかみに手を当てながらなんとか目を開けてPC画面の数字をチェックしていたら誰かが肩を優しく叩いた。

「どした?大丈夫?」

珍しく眼鏡をかけているホソクさんがデスクに手をかけ、心配そうな顔で私を覗き込んだ。鼻筋の通ったキレイな横顔がすぐ目の前にある。

「すみません、ちょっと体調が良くなくて」
「熱は?」
「いえ、熱はないんです。頭痛というか…薬がまだ効かないだけで」
「早退したら?」
「うーん、でも…」
「予定入ってるの?」
「3時から社内のミーティングと、その後はアポで」
「そっか…でも無理したらダメだよ。できそうならリスケしてもらうとかさ」
「はい。でももうちょっとしたら落ち着くと思うので、大丈夫です」

お腹と頭が酷く痛んでいるのにさらに心臓まで跳ねて、まるで全身が故障してしまったみたいだ。優しいホソクさんに変な心配をかけてしまったことを反省して、私は気力でなんとかしようとこめかみを更にグリグリして作業に戻った。

・・・

「森山さん、体調どうですか?」

少しして、アシスタントの黒木さんに声をかけられた。

「あ、ん?」
「あの、今見てきたら休養室空いてたんで、休んできてください」
「え?」

訳がわからない私を見て、黒木さんは声を潜めた。

「3時からのミーティングは部長と私が代わりに出ます。森山さんはしばらく横になって休んでて、って部長が」

ホソクさんは席にいない。「大丈夫だから」と言いたいところだが確かに体は限界で、できることなら今すぐにでもベッドに寝転びたかった。休養室まで送りますか?と尋ねる黒木さんに「大丈夫ありがとう。部長にもよろしく伝えておいて」と言って私はフロアを出た。

鉛が入ったみたいに重く痛む下腹部と腰を交互にさすりながらエレベーターを待っているとドアが開いた。中に、ホソクさんがいる。

「おー、間に合ったー」
「あの、すみません。3時からの…」
「いーのいーの。あっちにも伝えておいたから大丈夫。何も心配しないでいいから」
「ありがとうございます。ちょっと、休ませていただきます」
「うん」

ホソクさんは小春日和の穏やかな陽光みたいな笑顔で私の肩に手を添え、持っていたコンビニの袋を「これ持ってって」と渡した。

休養室に入り袋の中を見ると、温かいジャスミンティーが入っている。瞬間、私は拗らせた。

生理痛に苦しむ女が欲しいものをどうして男のホソクさんがわかるのだろうか。これは何かの偶然なのか。まさか、独身というのは実は嘘なんじゃないだろうか。もしくは、結婚はしていなくても奥さんのような存在の恋人がいるのだろうか。いや、いるに違いない。私は、大好きな人の最上級の親切に触れて感謝の涙というより寧ろ悲しみに近い涙を流した。ズキズキと痛む頭はそれ以上の思考を受け入れてはくれず、私はホソクさんが選んでくれた生暖かいペットボトルを胸に抱いてベッドに横たわった。

(続く)

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