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青い髪の人

3時過ぎには今日最後の授業を終えていた。来週月曜がデッドラインのレポートに早く取り掛からなければならないのに何故だか私はどうしてもその現実から逃げたい気分で、図書館まで来た癖にその手前のカフェでココアを啜っている。生クリームがたっぷりと乗ったココア。唇を雲みたいにふわふわのクリームにつけるとひんやり冷たいのに隙間にできた穴から熱くて甘い液体が押し寄せて驚く、を繰り返す。これが欲しくなる時は決まって私は疲れている。熱いココアを少しずつ少しずつ飲みながらこの大学の歴史ある荘厳な図書館の雰囲気を思い出すと、今の自分には寧ろごちゃごちゃした喧騒が必要に思えてきて、レポートのことは忘れて一旦キャンパスの外へ出ることを決意する。

建物の外はもうすでに暗くなっていた。ロンドンの冬は日が短い。まだ4時なのにもう今日の終わりを告げるような景色が広がっている。イギリスっぽいと思って買ったタータンチェックのマフラーを首に巻き、ポケットに手を入れて南に向かって歩く。まだ行き先はわからない。でもどこに行ったって最高の街であることに変わりない。

大英博物館を通り過ぎ、コヴェントガーデンに辿り着く。ぽわんと照明がついたアーケードに入りマーケットを覗いてみたけど今日私が欲しているのはこれじゃない。いや、寧ろ私はただ歩きたいだけなのかもしれない。だからそのまま再び南に向けて歩を進めた。このまま行けばトラファルガー広場だ。観光でロンドンに来た時は絶対に行く場所なのに、住んでみたら全く興味も湧かず酷い扱いをしている場所。

ぽつ。ぽつ。
大粒の雨が頬を濡らす。
あぁ、やっぱり大人しく図書館で勉強していれば良かった。

ロンドンに住む人は傘を持たない。いつだって雨が降るから逆に備えなくなる。そして雨が降るとまず考えることはどこで雨宿りするかだ。今考えられる一番の避難場所は、ナショナルギャラリーに違いない。

美術館には私と同じ状況の人が沢山いた。この国の大きな美術館や博物館が無料なのは本当に素晴らしいと思う。こうして偶然、予定外に美術館に入り、それをきっかけにアートに興味を抱く人だっているだろう。何というか、アートが自分の生活のすぐそばに寄り添っている感じというか。

雨は大降りになっていた。この感じだと当分止まないだろうとネイビーのピーコートについた水滴を手袋ではらいながら中へ進んでいくと、そこに、その人がいた。私と同じネイビーのピーコートを着てタータンチェックのマフラーをして、でも彼は、髪が真っ青だった。青い髪のその人の大きな瞳に私は一瞬で吸い込まれた。

時が止まった気がした。
私を吸い込んだその強い眼光はふわりと緩んで私を解放し、今度は悪戯っ子みたいな笑顔で私のハートに矢を放った。

「Hi」

と彼は言った。その発音で彼がイギリス生まれでないことはすぐにわかった。

「Hi」
「Where are you from?」
「ah…from Japan」
「Oh, Japan!」
「And you? Where did you come from?」
「I’m from Korea! But…にほんごも、ちょっと、はなせます」
「あっ…」
「ぼくたち、ようふくが、にてる」
「確かに、そうですね」
「みますか?」
「ん?」
「んー…Museumのなか、いきますか?かえりますか?」
「あ、あぁ、はい。行きます。一緒に?」
「いいですか?」
「…はい」

美術館の中は暖かい。何故かペアになった私たちはコートを腕にかけてたどたどしい日本語と英語で自己紹介しながら館内を回った。

彼の名はキムテヒョンというらしい。私が発音に難儀していると彼は「テテ、でいいよ。そのほうが、かんたん」と大きな両手を開いて見せて「て、て」と言った。私は笑って完全に日本語の発声で彼を「テテ」と呼んだ。すると彼はウインクした。

「学生ですか?」
「んー?」
「Student?」
「No」
「Business trip?」
「んー、ふつうのりょこう」
「一人で?」
「うん。ひとり…ぼっち?だから…さみしい」

子供のような素朴な言葉選びがまるで誘いの文句のようにも思え、思わず笑顔になってしまったのを俯いて隠した。単に美術館の入り口で会っただけのふたりなのに、まるでブラインドデートが始まる時のような雰囲気がある。

英語もそう得意でなさそうなので日本語でゆっくり喋った。そうすると彼は考えながら、時折変な日本語を交えて答えてくれる。一生懸命にめちゃくちゃな日本語を話す姿を見るに、彼はプライドの高くない純粋な心の持ち主らしい。

「絵はお好きですか?」
「はい、え、すきです」
「誰が好きですか?」
「んー、バスキアとか…バンゴフ?」
「バンゴフ?」
「んー、별이 빛나는 밤에…ほし、きらきら、よる?」
「…ごめんなさい、わかんない」

天井が高く広々とした展示室の壁は部屋によって赤、青、緑など色が異なる。そして、重厚な雰囲気に包まれるこの場所で一番ヴィヴィッドな色彩の頭をした彼が、何故だかどの部屋にもしっくり馴染むのである。アジア人の彼が、展示室に入るたびそこにいるすべての人の関心を集め、圧倒し、素晴らしい芸術と調和する様を、私は感嘆し眺めていた。

「どうしてロンドンに来たんですか?」

彼の美しい横顔に見惚れながら、私はそう聞いた。彼は整った顔にくしゃっと皺を寄せてこう答えた。

「んー、ジョンレノンに、あいたかったけど…おそすぎた」

彼が何を言おうとしているのかわからない。でも、彼が作り出す不思議な空気のせいでジョークを言っているとも思えない。

「ジョンレノン…?」
「へへへ、50ねん、むかしだね」
「…テテは何してる人?」
「ん?」
「お仕事は何ですか?」
「うーん、それは、ひみちゅ」

彼がそう言ってまたウインクすると館内にアナウンスが流れた。あと30分で閉館らしい。よく理解できていなさそうな彼にもう出なければならないことを伝えると、彼は突然私の手を握り来た道を駆け足で戻った。
彼の手は大きく、私の手をすっぽりと包み込みんで丁度いい力加減で私の全身を引っ張った。出口に着く頃にはふたりとも息が上がってしまってただ顔を見合わせて笑った。

雨はもう止んでいる。夜のとばりが下りたロンドンの街。ライトアップされたナショナルギャラリーと流れ行くヘッドライトと赤いバスと手を繋いだふたり。

「まだだいじょーぶ?」
「…うん」
「かわ、いく?」
「かわ…?川!そうですね」
「よしっ!」

雨上がりの濡れた石畳に街の灯りが反射して、歩くたびに足元の光が揺れる。私の手はまだ彼の手の中にある。なんだか夢の中にいるみたいだ。

(テテって…ピーターパンみたい)

私はふとそんなことを思った。私より少し年上なのに心の中は私より幼なそうな青い髪の彼。この街で何度も見た下心ある男の目もしていない。ただ、今、この時を楽しんでいるような無邪気な笑顔。彼は何者なんだろう。

テムズ川に近づくにつれ少しずつビッグベンが姿を表す。

「わー!ロンドーン!」

満面の笑みを浮かべ彼はまた私を引っ張り、横断歩道を走り抜けて橋の下へ降り、着いたのは川沿いのベンチだった。

「どうぞ」
「ありがとう。あ、でも、濡れてる」

すると彼は上等そうなマフラーでベンチの水をはらった後にそれを置いて、私の腕を掴み力づくでそこに腰掛けさせた。

「Wet?」
「あ、ううん。Soft。ふかふかしてる」
「いいでしょ?あー、きもちいいねー!」
「そうだね。汗かいちゃった。冬なのに」
「さむい?」
「ううん、暑い、Hot。それにすっごく楽しかった」
「ははは」

時折顔を見合わせながら息を整える。その様を見てはまた笑い、心臓は一向に休まらない。

「ここきて、よかったぁ!」

と、彼は空に向かって言った。

「私も。来て、テテに会えて、よかったです」
「うん、おなじ」
「…なんか最近疲れてて、これからのこと考えたらやる気が起きなくて…でもちょっとすっきりした」
「…?」
「テテのおかげで、Refreshed!げんき!」
「あー、あはは。ぼくもー」

そうやってベンチに座ったままどのくらい話しただろうか。汗をかいた分、冬の風は私の身体を冷やした。でも不思議なことに彼の穢れない笑顔を見ると心臓から温かくなる感じがする。

「ハ…クシュン」
「さむいね?」
「あ、うん、ちょっとだけ」
「かえろう」
「あ…の、近くのパブに行く?Pub?Beer?」

ベンチから立ち上がり、彼はぐるーっと景色を眺めた後、まるでさっき飲んだココアみたいに甘い声で優しく答えた。

「ぼくも、もう、かえらなければ、いけない」
「そう…なんだ…」
「たのしかった。ありがとう」
「私こそ。ありがとう」
「うん。いつか、また、あいましょう。きっと、あえるよ」

しばし見つめ合って、彼はまたウインクした。それはまるで、この夢のような夜が終わるサインのようだった。魔法がかけられ、魔法が解かれる、そのサイン。

地下鉄駅の方へ向かうと彼は「ぼくはあっちにいくよ」と反対方向へ進んだ。呆気ない別れに寂しい気持ちで彼に手を振りかえした時だ。

雪が降り始めた。

ロンドンで初めての雪だった。私は空を見上げ、上からどんどん垂直に落ちてくる白いふわふわした雪をただ見つめた。

(連絡先を聞かなきゃ)

そう思って視線を戻したけれどもう遅かった。見えるのは白い雪ばかり。彼はもうそこにいなかった。彼の向かった方向へ走っても見つけることはできなかった。

・・・

あの日からもう何年経っただろう。私は結婚して子供も産み、ロンドンの記憶も全て輪郭がぼやけ薄れてしまった。

ある日、仕事から帰り忙しく夕食の支度をしていた時だ。娘がテレビできゃーきゃーと何度も繰り返し同じものを見ている。テーブルに食事を並べ「ご飯だよー」と言ってもこちらにこない娘にしびれを切らし、テレビを消しに行ったその時だ。

ピンクの服を着た青い髪の人。

そして振り向くと、その人は紛れもない、私のピーターパン、テテだったのだ。

「…ねぇ、ママこの人知ってる」
「え?あ、テテ?ドラマ見た?」
「そうじゃなくて、会ったこと、あるの」
「はあ?何言ってんのママ。どこでよ」
「ロンドン…」
「ママ…大丈夫?疲れてる?」

・・・

その日を境に、私はARMYになった。

テテという人は知れば知るほどピーターパンみたいで、戯言にしか聞こえない私のあの日の思い出は寧ろ、彼が時空を旅することができる本物のピーターパンであることの証明にすら思えてくるのだった。

あの日、彼はとても幸せそうに笑っていた。「ここにきてよかった」と確かに言っていた。その記憶が、今の私を何度も温めるのだった。

fin.

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