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夕映えの恋 8

テヒョンは千葉までのドライブを楽しんだ。初めて乗るポルシェは座り心地が良かったし、敦子は運転が上手だったし、彼女の会話は年上だからと言ってテヒョンに気遣いしすぎることもなく横柄になることもなくとても自然体で、お互いに終始笑顔でいられるような雰囲気が車内に満ちた。車窓から見える景色は目的地に近づくにつれ少しずつ穏やかになり、まだ浅い陽の光は新緑からこぼれるようにキラキラと輝いている。テヒョンはこのところの自分に足りなかったのはこういう自然豊かで長閑な風景だったのかもしれない、と、子供の頃を思い出し心が洗われたような気持ちになった。

「可愛いわんちゃんいるかなぁ」

テヒョンがそう呟くと敦子は「そうねぇ」とだけ言った。

「初めてですか?犬飼うの」
「うん。ちゃんと飼ったことはなくて」
「ちゃんと?」
「小さい時にね、捨て犬を拾って新しい飼い主が見つかるまで数日預かったことはあるの。お友達と手分けして三日ずつとか、そんな感じで。すごく可愛くてね、目がくりくりっとした穏やかな性格で賢い子犬だった。私、その子に夢中で夜中に小さな物音がすると起きては真っ暗なリビングに行ったりして、そうすると嬉しそうに尻尾振って私にくっついてくるの」
「へぇ、なんかいいな」
「うん、でもね、悲しい思い出もセットなの。その子を引き受けてくれる人が見つかって友達と見送りに行ったんだけど、その人、子供心にちょっと怖そうなおじさんって感じで。それでその後はほとんど会いに行かなかったの、外飼いだったのに。半年後くらいかなぁ、久々に友達と見に行ったら誰にでも大きな声で吠えるわんちゃんになってて、その一年後くらいにはいなくなってた。私、あの可愛いわんちゃんがそんな風になったのは自分にも責任があると思ってね。友達数人の家でたらい回しみたいにしたことが悪かったのかなとか、何度も捨てられた気持ちになってグレちゃったのかなとか、折角外飼いだったんだから毎日でも会いに行けば良かったとか」
「優しいですね、敦子さん」
「え?」
「だってそんなこと未だに覚えてて責任感じてて」
「そうかな…ただ気軽な気持ちでペットを飼うのは良くないってその時の経験で思ってるの。だから今日はちょっと複雑な気持ち」

テヒョンは言葉を返さなかったが、運転する敦子が肩に温かみを感じるくらいに優しい眼差しを向けた。

「優しいと言えばテヒョンくんだけどね」
「そうですか?」
「うん。肌で感じられるの、テヒョンくんの優しさは。なんていうのかな…優しさというマイナスイオンが出る空気清浄機みたい、テヒョンくんって」

そう言われてテヒョンは恥ずかしそうに上下の歯を見せた。喫茶店で初めて言葉を交わした時、敦子が彼をあどけなくて可愛いと思った時と同じ顔だ。

「それはきっと、敦子さんが僕のスイッチをちゃんと押してくれたんです」

・・・

ナビが到着を告げた先にあったのは広い敷地にあるアメリカ風のオシャレな住宅だった。細長い板を一枚一枚重ね合わせたような外壁は空と同化するような綺麗なブルーで、ドアや窓枠やウッドデッキは目が眩むほどに真っ白だ。車を停め外に出るとポーチに腰掛けるサングラス姿の男がよっ!と笑顔で手を上げた。

「ヒョン!久しぶりです」
「おー!元気だったか?」
「はい。あの、こちら、僕のお店のお客さんの敦子さんです」

敦子が挨拶しようとすると男は立ち上がりサングラスを外した。

「遠路遥々ありがとうございます。今日はいい天気ですね!どうぞ、ゆっくりしていってください」

男はそう言うと敦子に名刺を差し出し完璧な笑顔を見せた。名刺には見慣れた漢字が三文字並んでいたが正しく読めそうなのは「朴」だけだった。テヒョンがヒョンと呼ぶのだから在日か韓国人なのだろうが、敦子はそれを全く予期していなかったし、何よりも想像していたブリーダーのイメージとは大きくかけ離れていたので少々まごついてしまった。何しろこの男はゆうに185センチはありそうなモデル体型にキリッとした小顔で、妙な色気があった。

「ペットとは言え家族を迎えるわけですから、僕はお客さんには心からこの子だと思える子に出会うまでゆっくり探して決めて欲しいんです。なので今日は将来迎える子が育つ環境を見て安心してもらえたら十分かな」

家の脇の小道を進むと大きな庭が広がり、開放感のあるケージの中では子犬たちがじゃれ合っていた。キャンキャンという小さな鳴き声は敦子に捨て犬を預かっていた時の記憶を蘇らせた。

「わぁ」

テヒョンの驚いたような喜んだような声が聞こえたので視線をその方向に移すと彼はケージの前でしゃがみこんでいる。元気に走り回る数匹の子犬の中に静かにじっとテヒョンを見つめている賢そうなポメラニアンがいて、テヒョンがケージに顔を近づけると嬉しそうに尻尾を振って近づいた。

「ヒョン!僕この子がいい!」

テヒョンが満面の笑みでそう言うとブリーダーは呆れたように「やー、お前じゃないだろ。ねぇ」と言って敦子に微笑んだ。

「でも可愛い、この子」
「ポメは人懐っこくて賢いから、確かに敦子さんに良いかもしれないですね」

ブリーダーの男はポメラニアンをゲージから出して敦子に抱かせた。テヒョンが敦子の背にぴたっとくっつくようにして犬の顔を覗き込むと犬は尻尾をさらに振ってテヒョンの頬をペロっと舐めた。敦子とテヒョンは笑い、まるで三人家族のような温かい雰囲気が生まれた。

「失礼ですけど、敦子さん今お仕事とかは?」
「いえ、今は、特に」
「そうですか。いや、ポメって寂しがりなので敦子さんはこの子にとって嬉しい飼い主さんかもしれないです」

「そうですか」と静かな笑顔で頷きながら敦子は何か考えるように視線を遠くに向けた。

つづく

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