私の好きな人 3
人事部からの一斉メールが届くと周辺のデスクからぽつりぽつりと小さなため息が聞こえた。人事評価面談の季節だ。この会社には世界共通の人事評価プロセスがあり、それにかなり力を入れている。年初に社員自身が伸ばしたいスキルを設定し、定期的にチェックしながら一年を終える前に上司と共に振り返る。システムとしては素晴らしいのだが、年末のこの時期になると煩わしくてたまらない。何故なら上司との面談前までに年初に設定した目標に対する成果や反省点などを文書に、しかも英語で、まとめなければならないのだ。つまりこの「季節」とは業務外の面倒な作業が発生する、社員にとって多少憂鬱な時期を意味する。
「やー、めんどくさいなぁ」
後ろの席でソクジンがぼやいた。このチーム最年長の吉田さんも仕事の手を止めソクジンに同意する。
「僕はここ何年かずっと使い回しだよ」
「マジっすか」
「うん、案外ね、気付かれない」
「えー」
「いや、部長気付いてるのかな?僕が英語苦手だから見逃してくれてるのかな」
私にとって人事評価面談とは、ホソクさんが、狭い個室で、向かい合って、私の良いところを褒め、改善すべきところを優しく叱ってくれるという、油断したらヨダレが出てしまいそうなほどに満足度100%の一大イベントである。当然毎回ド緊張するし、顔がニヤけてしまわないように細心の注意が必要だ。折角の素晴らしい機会を無駄にしたくないから、私は多分ここにいる誰よりも準備に時間をかける。ソクジンが嫌だ嫌だと軽口を叩くのを聞きながら、私はホソクさんとの今年の面談を想像して胸が高鳴った。
・・・
「ごめんごめん、だいぶ待たせちゃったね」
駅から走って来たのだろうか、ホソクさんは呼吸が荒く汗もかいていた。腕にかけたジャケットを椅子の背もたれにかけ鞄も置くと、まるでその疲労を主張するように勢いよくドーンと腰掛ける。
「大丈夫ですか?お水、持ってきますね」
「あーーー、ほんと?助かるな」
「ふふ。ちょっと待っててください」
自販機で水を買い小さな個室に戻るとホソクさんは汗ばんだシャツをパタパタさせている。
「どうぞ」
「おー、ありがとう」
目の前で蓋を開けゴクゴクゴクと音を立てて水を飲むホソクさんの、白く綺麗な喉元が男っぽくうねる。思わず見惚れてしまった私の心臓に炎がボワっと着火しトクトクトクと音を立てた。
「よし。じゃあ始めようか」
ホソクさんの優しい瞳に真剣な光が刺す、その瞬間が好きだ。彼の優しさや親しみやすさをピリッとした緊張感が薄い膜で覆い、彼という人の高潔さが美しく輝く瞬間。なんだかんだ言って、お仕事モードのホソクさんが一番カッコイイ。
「まず、今年を振り返って良かったことから、教えてもらえるかな」
その年の振り返りというとまずダメだったこと、悔いが残ることから言いたくなる私だが、ホソクさんは必ず自分の良かったことから言うよう指示を出す。しかも、しっかり準備したはずの自分すら気付いていなかった「私の良かったこと」を具体的な例を出して補足してくれる。優しい表情で、時に真剣な眼差しで、大好きな人が私について語るのを聞くことほど幸せなことはない。
「じゃあ、次はチャレンジングだったこと、来年に向けて改善したいことは?」
「はい…」
「でも森山さんは…」
ホソクさんが口ごもったので前を見ると、「妖しい」という表現がぴったりな微笑みを浮かべて私を見つめる彼がいる。私の心臓はバクバクバクと暴れ出した。
「…いや、やっぱり、とりあえず聞こうか」
「は、はい」
テーブルに両肘を立て、前に組んだ両手で口元が見えないホソクさんの鋭い視線を浴び、私のハートは沸点に達しぐちょぐちょに溶け始めている。危険だ。目を合わせられない私は敢えて手元の資料を見ながら自分の改善点について冷静を装い説明した。
「…相変わらず自分に厳しいね」
「いえ…反省できるくせに改善できないタイプでして…」
「ははは。でもそういうところ、好きだよ」
(ギュンッ!)
「俺から見て、森山さんはすごく、いいよ」
「ありが、とう、ございます」
「うん。すごくバランスがいいって言うかね。結構強気だし、でも協調性はあって、あまり弱音は吐かないし愚痴を言ってるイメージもないし…あ、俺のいないところで言ってるのかな」
「いえ、そんな、まさか」
「ははは。だからたまにちょっと心配にはなるんだよ。無理してないかなって。もっと、甘えていいんだからね」
(グサグサグサッ!)
「ただ欲を言うと、俺はもっと…欲しい」
「はいっ?」
「もっとやれると思うんだ。まだ俺に見せてないでしょ、森山さんの全部」
「あ、いえ…どうでしょうか…」
「もっとガンガン攻めていいよ」
「はっ、はい…」
「俺、結構森山さんのこと、見てるからね」
「え…」
「逆に、俺にして欲しいことはある?」
「えっ…いえ、特には…」
「いっていいよ」
「いえ、私、本当に…」
「そう?これで、満足?」
「や、私に足りないことがまだまだ多いので…」
「そうじゃなくてさ…じゃあ言い方を変える。森山さんはどんな時一番気持ちいいの」
「えっ?」
「一番やりがいを感じる時っていうか」
「あ、あぁ。大きい契約を結べた時は勿論なんですが、やはりクライアントに喜んでいただけた時とかが…」
「一番快感?」
「は、はい…」
罪深い言葉選びのホソクさんは突くような鋭い視線を送りながらもいたって優しい微笑みを浮かべていて、それがさらにサディストっぽくて余計に興奮してしまう。私はまるで蛇に睨まれた蛙、いや、蛇にその身を捧げる覚悟ができた蛙、みたいだ。ホソクさんが冷静に努めようとする私の心に入ってきて中をめちゃくちゃに掻き回すから、ずっと抑えていた何かが溢れ出てきて止まらない。私はもう、瀕死だ。
「まぁ、まとめると、俺は森山さんの仕事への向き合い方は凄くいいと思う。だからもっと自分に自信を持って、自分には無理だとか思わずもっと積極的に、攻めて欲しい。本能に従うっていうのかな、もっと大胆になってくれていい。俺が全部受け止めるから」
(…(-ノ-)/Ωチーン)
ホソクさんはあくまでも仕事の話をしている。なのに、私の脳はついにイカれてしまった。言いつけを守り、今すぐにでもホソクさんの節っぽい手を握り「好きです」と告白したい。でも、無理。
結局、ホソクさんの素敵なアドバイスに私は機転の効いた返しもできず、ただただ俯き加減で「はい」とか「ありがとうございます」とか「頑張ります」などと答えた。その後は営業数字の確認もしたのだが、当然ながら頭は全く正常に動いておらず、A3用紙にびっしり並ぶ細かい数字を指したり撫でたりするホソクさんの指をいやらしい気持ちで追っていた。なんてダメな女なんだ私は。そうか、つまり、これこそが来年私が改善すべき点なのか。
(続く)
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