どこかで、聞いたような話⑧(終)
今朝は朝イチでマスクパックをした。埃をかぶっていたフェイススチーマーも出してきて、肌を綺麗に見せるための液体やらクリームやらを何層にも重ねた。アイメイクも真剣に、唇も艶めかせる。
今日は大きな仕事が入っている。世界的スーパースター、キムテヒョンの取材だ。
キムテヒョンがまだ新人の頃、その時は私も新卒だったのだが、取材担当の先輩がノロウイルスにかかってしまい、急遽サポート役だった私がメインで取材を行った。その時のインタビューが発売後に結構話題になり、その後キムテヒョンは飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムへとのし上がっていった。私のインタビューは偶然の通過点でしかないのだが、それ以来、彼は必ず私を指名してくれる。「むらさき(村崎)するよ」と言って。
今や彼は世界を舞台に活躍するスター。高級ホテルのスイートを借りきってのインタビューである。彼の希望により、カメラマンやスタッフは極少数、インタビューは出来る限りプライベートな形で行う予定だ。
「キムテヒョンさん、入りますー」
スタッフの声が響く。ドアから姿を現した彼は、この世のものとは思えない、輝くオーラを身に纏っている。それが、私を見た途端、
「むらさきするよー!」
と元気いっぱいの笑顔でふざけるのだ。そう、この美貌とこの意外性こそが彼が世界中の人々を魅了して止まない理由だ。彼は誰もが認める才能とカリスマがあるのに、全く偉ぶらず、子供のように純粋で無邪気な姿をいつも見せてくれる。
撮影を終え、これからインタビューだ。撮影関係のスタッフが撤収すると、広いスイートには彼と私と数人しか残らない。
「テヒョンさん、先日はステキなお花、ありがとうございました」
そう言うと、彼は無言で私を見つめ悪戯っぽく片眉をぴくっとさせた。実は数ヶ月前、突然私のオフィスに私宛で、彼から大きなバラの花束が届いた。メッセージカード付きで。事務所へお礼の連絡と彼宛に礼状も送ったが、本人に直接ありがとうを言うのは今日が初めてだ。
用意していた分のインタビューが終わると慌ただしそうにマネージャーが入室しキムテヒョンに耳打ちしている。彼は困ったような顔で私に視線を寄越した。
「村崎さん、この部屋もう少し使ってもいい?次のスケジュールが空いちゃった」
「あ、はい。まだ時間も余っているので、お部屋使っていただいて大丈夫です」
「村崎さんも、いてくれる?」
「は、はい」
「じゃあさ、こっちおいでよ」
こうして、広いスイートルームでなぜかひとつのソファーに男女がふたり並んで座ることになった。長い付き合いの、しかも仕事上の関係とは言え、高級で柔らかいソファーのすぐ隣に彼ほどの美貌の男性が座っている状況には、さすがに私の心臓もただごとではないぞと音を立てた。それでも平静を装いありきたりな質問をしていると、
「ねえ。村崎さん。恋愛してる?」
「はあ、どうでしょう。してるのか、してないのか、よくわからないです。あ、特別な人はいないんですけど」
そう言ってから、最後の一言は不要だったな、と反省した。
「それってどういうこと?」とキムテヒョンはさらに私に近づく。「もっと詳しく教えて」
「知りたいですか?全然、つまらないですよ」
微笑を浮かべうんうんと頷く彼の目力に負け、私は何から話そうかと考えを巡らせた。本当に、キムテヒョンは私のそんな話を聞きたいのか...?意図は不明なままだが、傷心離婚して、何人か気になる人がいるが一歩を踏み出せないこと、そんな中デートをしてみたら楽しかったこと、などを話した。
「村崎さんって...正直だけど素直じゃないんだね」
グサっと来た。その通りだ。
「恋愛したい時は、可能性とか世間体とか恥とか迷惑とか、そういうことは考えちゃダメだよ。もっと自分を甘やかしてあげなきゃ」
「いや、私、つい考えすぎちゃうというか...それにもう随分前から自分の気持ちがよくわからないんです。なんていうか、ハートが凍っちゃってる、っていうか...」
その時だ。強い眼光で私を見ていたキムテヒョンが私の顎をクイッと掴み、私の唇に優しいキスをした。唇を起点に一瞬で身体中に電気が走る。電流は私の全細胞を駆け抜け、一番深い、心臓にも到達した、気がした。
「氷、溶けた?」
気が動転して言葉が出ない。そんな私を見て彼は首を少しかしげ、また悪戯っぽく微笑む。
「僕はあんまり自由じゃないよ。いつもみんなに見られてるし。やりたいこと何でも自由にやれる訳じゃない。でも村崎さんは違うでしょ?少なくとも僕よりは自由。だから、もっと、さ」
キムテヒョンの言う通りだ。これまでに何度も恋愛という海にダイブするチャンスは回ってきた。たとえ失敗しても何度でも階段を登りダイブに挑戦することもできるし、何ならダイブそれ自体を楽しんでしまえばいいのに。それが、たったひとつの失敗で、私はあーだこーだ理由を付けて飛び降りることを躊躇っていた。視界がパーっと開けていく、そんな感覚がした。キムテヒョンは愛の伝道師なのか。
「テヒョンさん、もうひとつ、聞いていいですか?」
キムテヒョンはまた眉をピクッとさせる。OKの意味だろう。
「どんな時に、この人を好きだなぁ、って感じるんですか?好きな気持ちを確信する時って、いつですか?」
キムテヒョンはぼんやりと何かを見つめている。
「例えば...夜空を見上げて、もしそこにいなくても、月が綺麗ですねって言いたくなる人が好きな人、かな」
キムテヒョンがこんな話をする真意は最後までわからなかった。ホテルのスイートルームで、私も彼にダイブして良かったのだろうか。帰りがけ、彼は小さな紙切れを私に渡した。そこには電話番号と英字でLove Yourselfと書いてあった。果たしてこれが彼のプライベート番号なのか、それとも他の何かなのか、私にはわからない。ただ、この紙切れは、ふたりだけの秘め事のようで、とても甘美な匂いがした。
その夜、子供を寝かせてPCに向かいながら、ふとキムテヒョンの唇の感触が蘇った。頭を冷やそうとベランダに出て空を見上げた。ヴェールのような薄い雲が静かに流れ、澄んだ空に綺麗な月がくっきりと輝いた。
「月が綺麗ですね...」
その時、私の脳裏には、あの人の顔が浮かんでいた。
(完) ※エピローグへ続く
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