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私の好きな人〜部長のサイドストーリー

彼女の第一印象は「この子に営業は向くだろうか」だった。

華奢で、栗色の髪は柔らかそうで、子犬みたいな目をしていた。よろしくねとカジュアルに挨拶したら顔を真っ赤にして物凄い早口で自己紹介された。マーケティング部からこの部署を志願して来たと聞いてその理由を聞いたら「先輩に憧れて志望しました」と言われそれは嬉しかったのだが。OJTで同行させた時は移動中ろくに目も合わせずずっと固い笑顔で「そうですね」と頷くばかりでこんな子を連れて行って大丈夫だろうかと心配したのに、クライアントの前ではよく機転も利き明るく場を盛り上げたので驚いたことをよく覚えている。同期のジンとも仲が良いし、教育係をしていた後輩は彼女をユーモアのセンスがあって考え方が大人だと褒めていた。それなのに自分にだけは随分と硬い反応をするものだから「ああ、俺も随分と歳をとったもんだ、もうおじさん扱いなんだろうか」なんて凹んだりしていた。

当時、自分には恋人がいた。人の紹介で知り合った二つ歳上のその人は、アパレル業界で働くおしゃれで華やかで流行に敏感な目立つ女性だった。いつも話題の場所へデートに行ったりした。おかげで自分も情報通みたいになって、それは仕事にも活かされた。ただ、今思い返せば、その人と一緒にいるときに心からリラックスしたことはなかったように思う。部長に昇進してからは仕事が忙しくなり、二人で過ごす時間が急激に減った。それでも、当時の自分は歳上のその人へ妙な責任感みたいなものを感じていて、昇進したことで結婚についても考えるようになっていた。しかし、この関係はあっさりと終りを迎えた。ある年のバレンタイン、出張先での仕事が早く終わったので宿泊予定をキャンセルし、途中で花束を買い、その人の家へ行ったらベッドに知らない男がいた。自分の女を取られた怒りで思わずそいつを一発殴った。するとその人は男の方を介抱し悪びれもせず「別れましょう」と言った。なぜか、自分の方が先に捨てられた。

失恋の悲しみみたいなものはあまりなかったが、軽度の女性不信には陥った。酷い別れ方をした自分を元気付けようと友人が何人か女性を紹介してくれたが全部気乗りせず断り、そのうちに誰からも紹介も合コンのお呼びもかからなくなった。ただ、恋人がいなくても毎日は充実していて、自分の人生には恋愛は不要なのかもしれないと悟った。

彼女はその頃には立派な営業マンとして成長していた。特に自分が部長に就任してからは、彼女の頑張りには幾度となく救われた。自分を尊敬してくれる可愛い部下。それが自分が彼女に対してずっと変わらず持っていた印象だ。

彼女はいつも朝早くに出社していて、朝のオフィスで二人きり、というシチュエーションがよくあった。斜め前を見るとスッと姿勢の良い彼女の背中が見える。自分に喋りかけることもなくただカタカタとPCを鳴らす音は心地良く、一人だけの時よりもリラックスして仕事に集中できた。朝のその時間が実のところとても好きだった。ある日、彼女の髪型が変わっていたのに気付いて声をかけた。

「おっ、髪型変わったね」
「はい。どう…ですか?」
「すごい似合ってるよ、うん、可愛い。なんか撫で撫でしたくなる感じだね、ははは」

彼女は表情をこわばらせて、早口で「ありがとうございます」とだけ言いPCに向かったと思うとすぐに席を立ってどこかへ行ってしまった。自分の発言に何か問題があっただろうかと「部下 可愛いと褒める セクハラ」でググるとそういう記事が沢山ヒットした。だからそれ以降は発言に気をつけるようにした。が、その後も似たような失敗を何度も繰り返した。毎回、彼女の特異な反応を見て、やってしまってから失敗に気付くのだ。反省したが、可愛い妹のような、昔飼っていた犬のような、時折自分の恋人のような錯覚をさせる彼女にも責任があるのではないかと思った。

先週、アポの帰り道にイルミネーションを見に行こうと誘った。彼女は凄く嬉しそうに反応してくれて、いい気になった自分は行きつけの店にまで連れて行った。その店は決してデートで行くような店ではないし、下心を感じさせたり色っぽいムードになったりするような雰囲気ではない。だから大丈夫だろうと高を括っていた。しかし、今度は寧ろ自分の方に問題が起きた。手際よく料理を皿に取り分ける彼女の横顔、ワインを口に含む時に一瞬ぶつかる視線、大きながんもどきに齧り付いた後の濡れた唇…食事中に何度か、体の奥の方から長らく感じていなかった熱が突き上がっては自分の理性を苦しめた。しかも、彼女は自分のことを好いていると言った。気が動転した。だから余計に、僅かながら残っている理性が機械的で冷たい発言ばかりさせた。

その週末は彼女のことを何度も思い出した。いつもなら無心で掃除したり洗濯したりするのに、彼女を想うと心浮き立ち自然と鼻歌なんかが出てきたりして、その度に、ずっと放ったらかしにしていた心の傷がやっと癒えたような幸福感を覚えた。しかし、彼女は自分の部下だ。そのことに悩んだ。もしや直属の部下でなければ今よりは状況を好転させやすいのではないか。そう思って彼女に他部署での仕事をオファーしてみた。その日を境に、彼女の自分への態度が急変した。

彼女が自分と目を合わせてくれなくなって初めて、いつも気分良く仕事できていたのは彼女の可愛い笑顔のおかげだったと気がついた。朝、出社した時にその場に彼女がいることが自分にどれだけの充足感を与えてくれていたかを知った。そして今日、デスクがいつも綺麗なのも彼女のおかげらしいことがわかった。

シンガポールのポジションに挑戦してみないかという話に断りのメールを入れた。もうあと一、ニ年、日本で頑張りたいと伝えた。もうこれ以上何を頑張るんだと聞かれ、まずはワークライフバランスを整えたいと答えると「グッドラック」とだけ返事が来た。

クリスマスムード高まる街を歩きながら彼女を思った。仕事に勤しむあまり恋愛の仕方をすっかり忘れてしまったが、なんとか、見えないくらいの細い糸でもしっかりと手繰り寄せてみせる。何としてでも、ゆっくりでもいいから、彼女の心を自分のものにしたい。そう思うと全身に力が漲り、未来への希望を感じるのだった。

(完)

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