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どこかで、聞いたような話①

はぁ。思わず大きなため息が出る。疲れた。

「ママ、これシュウのすきなやつ〜」

食卓の上にはカレー。息子はアンパンマンのパッケージというだけで喜ぶが出してしまえばただのレトルトカレーだ。罪滅ぼしにブロッコリーを茹で、今日は冷蔵庫にイチゴもある。これで合格点を貰えるだろうか。そもそも、あるべきママの姿ってどんなだろう。私の諸々のハンデを加味した上でどのくらいが合格点なんだろう。それすらも最近ではわからない。

アイツと別れてもう3ヶ月だ。いや、あの嵐のような日々が過ぎ去ってから3ヶ月というのが正しいだろうか。

アイツと付き合い始めたのは大学2年、20歳の頃だ。アイツの押しが強くて特に断る理由もなく告白を受け入れたあの日からだ。社会人になり忙しくなるとお互いに付き合っているのかすらわからない微妙な関係が続いた。それがなぜか突然妊娠してしまったのだ。5年以上もなあなあの関係だったカップルができ婚とはね、と親友のユキにからかわれたものだ。とはいえ私は結婚が嬉しかった。友達よりも早くドレスが着れたし、アイツは結構見た目も良かったし、建前だけだとしても進歩的な考えの企業に勤めていたからストレスなく産休育休を取得できた。

息子のシュウが1歳にもならない、まだつかまり立ちし始めたような頃だった。帰宅時間が遅くなることが増え、そのうち朝帰りをするようになり、あからさまに私への態度が悪くなった。浮気していることははっきりしていた。負けず嫌いで男勝りな私はすぐに離婚したいと思った。でも周りが許してくれなかった。アイツの両親も田舎から出てきて私に何度も謝り、それをみたアイツ自身も一度きりだから許してほしいと私に懇願した。その頃からだ。私は自分の感情というのがよくわからない。

「グーチョキパーでグーチョキパーでなにつくろ〜なにつくろ〜」

カレーを食べながらシュウは手遊びを始める。私も保育園の先生のような声で合わせて歌う。こうしてふたりで笑いあっていると幸せだ。でも後で必ず悲しみが襲ってくる。晴れて暑い日の翌日に雨が降るように。

でも今日は違った。ピンポーン。1DKの古臭い間取りの家のドアが鳴る。

「ヤー!毎度ながらお前はドアを開けるのが遅い!寒い寒いっ!」騒がしい訪問客はソクジン先輩だ。最近しょっちゅう仕事帰りに我が家へ来る。我が家のそばにあるツタヤでシリーズ物のDVDを借りたいからついでに寄っている、と彼は言うが、多分離婚した私たち親子を心配してのことだ。

ソクジン先輩とは大学のワンダーフォーゲル部で親しくなった。背が高く、すっと整った顔立ちの先輩は大学ではまあまあ有名だった。先輩目当てで大して興味のない登山を始める女子部員も多かった。フワフワとアウトドアごっこを楽しもうとする女子の中で、山岳雑誌を真面目に読む私を先輩は面白がり男友達に対してするように接してくれた。だから私は他の女子とは違う目線で先輩が好きだった。2年の夏合宿、ソクジン先輩は大手銀行への就職が決まっている中で参加したのだが、その時にちょっとした事件があった。先輩目当てで入部し、その夏合宿で告白しようと計画した同級生の部員が起こした騒ぎ。なにもこんな山の中で、サバイバル生活みたいなことをしている時に告白なんてしなければいいのに、と私は思ったものだが、彼女は恋に恋していたのだろう。可愛らしいアウトドアファッションに身を包み、彼女は谷川岳の山頂を越えたあたりで先輩に告白し、見事玉砕したのだ。そして彼女とその友人は行方不明になった。

それ以降の計画はすべて白紙になり、下山して助けを求める者、ここに留まり捜索する者と二手に分かれた。私も先輩も探す側として山頂近くに残ったのだが、この話のオチはとてつもなくどうしようもなくて、実は彼女たちは傷心のまま勝手に先に下山したのだった。私たちが恐れていたようなことは起きていなかった。そして、真剣に探していた私と先輩が遭難した。

ふたりとも無事だったからさらっとではあったものの、私と先輩がヘリで救出される映像は全国ニュースにも流れたらしい。遭難の間の甘い記憶も救出後のゴタゴタですべて台無しになり、世間を賑わせ迷惑をかけた男女は顔を合わせづらくなり、あまり言葉も交わさないまま先輩は大学を卒業した。

「ヤー!おい!可愛い息子にレトルトか!」

「先輩。わかってるけどさ、私だって忙しいんだもん」

「おう、そうだな。いや、最近のレトルトはなかなかいけるからな」

先輩は昔から優しい。からかっても必ず最後はフォローしてくれる。その広い肩幅と同じく、器が大きくとても頼りになる。遭難したあの時も、暗闇の中で恐怖を隠しきれずにいる私をぎゅっと優しく抱きしめてくれた。ああ、あの時私たちの救出があんなに早くなければ、もしかしたら翌朝自力で下山できていたかもしれない。そうすれば私たちはあんな風に疎遠にならず、もしかすると私の結婚相手は先輩だったかもしれない...。最近我が家に私と息子を元気付けにやってくる先輩を見ているとそんなことを考えてしまう。

「先輩、どうして結婚しないんですか?」

「ヤー、お前によくそんなことが言えるな。失敗している人間をこんな間近で見てるんだぞ。する気が起きない」

「でも先輩、モテるでしょ?」

「まあな。この顔だからな。ひゃっひゃっひゃっ」

「先輩が私の結婚式の二次会で司会してくれた時、友達からの問い合わせ凄かったんだよ」

「あー....」と先輩は遠い目をして何かを考えている。「でもあれだな。完全に忘れるのは難しいだろうけど、あの時結婚した記憶は全削除して、自分を騙してリセットして生きるのがいいよ。シュウも...宝くじで当たったとでも思えばいい」

「なにそれ。どうして子供が宝くじなの」

窓を拭くような声で笑う先輩。今日、私の心に雨は降らなさそうだ。ありがとう先輩。私は確かに先輩が好きだった。でも今は自分の感情が判別できない病にかかっているし、今更、先輩の優しさに甘えるのは申し訳がなさすぎる。たとえ、先輩に私への気持ちがあったとしても...。

(続く)

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