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どこかで、聞いたような話②

私の朝は忙しい。

まだ暗いうちに起き日中にできない家事を済ませる。子供を起こしご飯を食べさせ、自転車に息子を乗せて保育園へ。あ、もちろんゴミ出しも。シンママ大変だね、と言う人がいるかもしれないが、これは子供を産み職場復帰してからずっと変わらない私のルーティーンだ。つまり、結婚している間も夫婦でいる必要性がゼロな生活を長らく送ってきた。この事実が未だに私を落胆させる。

保育園の入り口は出社前のママたちで混み合っていた。入り口が混み合っている時は決まってグク先生がいる。他の先生ならママたちは子供に軽く手を振るだけですぐ帰るのに、女って本当にゲンキンな生き物だ。

「お!シュウ!おはよ!お母さん、おはようございます!」

「先生おはようございます。シュウ、じゃあね。ママ行ってくるね」

「お母さん!今日もファイティン!」

くるりと丸い目を細め、可愛いウサギのような笑顔を見せるグク先生。これではママから人気が出るのも仕方がない。私も思わず頬が緩み恥ずかしさ隠しにガッツポーズで返す。昨日は先輩のおかげで楽しく夜を過ごせたし、今朝はグク先生のファイティンを貰って今日はちょっといい日になりそうだ。

私は出版社に勤めている。女性向けライフスタイル雑誌の編集部が私の職場だ。出版社は夜遅くまで働く人が多いため、朝一で出社する人は半分もいない。とは言え、保育園のお迎えというタイムリミットがある私は誰もいない時間から働かないと仕事が回らないし、仕事が少しでも回らなくなればワーママという存在への風当たりが強くなってしまう。つまりこれは私の大切なライフハックだ。

デスクのPCをオンにして社員用自販機で大して美味しくもないコーヒーを淹れる。コーヒーを飲みながらメールチェックしていると社内チャットの通知音。

<ソンベ、今日も早いですね>

文芸編集部にいる後輩、ナム君からだ。

<おはよう。今日天気いいね>

<途中下車して梅を見てきました。キレイでしたよ。ソンベも昼休み見に行ってみて>

<うん、余裕あったら見に行くかな。今日はなんだか見たい気分かも>

<もし時間合えば一緒に行きましょう。では>

ナム君は一年下の後輩で、入社した時に私が教育係を担当した。地元では有名な神童だったらしく、今も言葉選びや空気を読む力など、全社員の中で一番賢さを感じる人だ。

外部ライターさんからの記事チェックを全て終えるともう1時近かった。今日もデスクランチだな...。そう思っている私の肩をしなやかな、でも重みを感じる長い指がトントンと叩く。直感でナム君だとわかった。

「ソンベ、まだお昼食べてないでしょ」

「うん」

「坂を上ってった先に美味しいサンドイッチ売ってるから、散歩がてら行きましょうよ。梅見たい気分なんでしょ」

坂を登りながら、私はナム君から最近読んだ面白い本の話や意地悪な作家先生の話なんかを聞いた。悲しいことに、出版社で働いているというのに、最近の私はあまり本を読まない。

「いいんですよ。忙しいってことでしょ。きっといつか自然と手が伸びる、その時が本を読むべき時だから。ところで最近体調は大丈夫ですか?」

ナム君が頻繁に社内チャットをしてくれたりこうしてランチに誘ってくれるようになったのは、先月私が職場で倒れてからだ。突然ひどく具合が悪くなり、違うフロアの休養室に行こうとエレベーターに乗る直前だった。完全に意識が飛んだ。意識が戻った時は病院だった。こんなドラマみたいなこともあるのだな、なんてぼんやり思っているとそこにナム君がいた。違う部署だというのに病院まで私を運びずっとそばにいてくれたのだ。ベッドには私の名前が旧姓で書かれていた。勘のいいナム君のことだ、きっと私が離婚したことはバレただろう。何も聞いてこなかったけど。

「大丈夫だよ。あの時はほんとありがとね。そうだ、まだお礼してなかったよね」

「いいんですよ。それよりソンベはもっとちゃんと、沢山食べて。痩せすぎです」

「何言ってるの?何も知らないくせに...って、え?もしかしてナム君、運ぶ時...」

「抱き上げましたよ、こうやって。お姫様みたいに。軽すぎです、ソンベは」

恥ずかしい。なぜだか今まで考えもしなかった。私、ナム君に抱え上げてもらったんだ...その時の記憶がないのがいいんだか、悪いんだか。

「いやもう、ほんと、ごめんね」

するとナム君は坂の上の方を無言で指差し、小さな顔にエクボを引っ込めた。

「梅、キレイでしょう。これをソンベに見せたかったんです」

見上げると明るいピンク色の梅の花が可憐にもたくさん咲いている。春の訪れを一気に感じさせるように。

「ほんとだ〜キレイだね!私こういうピンク、すごく好きだな」

「ソンベ、ピンク好きなの?そんなイメージなかったけど」

「ふふ、確かに私、ピンク着ないよね。でもさ、お花のピンクくらい好きって言わせてよ」

「ソンベは本当はピンク似合いますよ」

形は小さいけど奥から輝く瞳、そして深く引っ込むエクボ。文系の癖にガタイのいい身体。優しく低い声。大事な後輩であることを忘れたらクラクラしてしまいそうな男だ、ナム君は。危険すぎる。

(続く)

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