罪 死 性愛

 専ら考えていることはこの3つだ。

 罪は自分が悪いと思って罪悪感に苛まれることがあったらそれが罪なんだ。それが他人にとって些細なことでもそうでなくてもその人次第だと思う。免許センターで交通事故遺族や加害者のビデオを見ながら、そう思った。
 私は自分の性に奔放であったことを、性を売り物にしたことを、罪だと感じている。真人間になろうと決意して、一度は過去は過去で、私はただそれを事実として自分の歴史として持っておるだけにしていたけれど、やはり罪の意識がまた襲ってくる。
 罪は穢れだ。一度犯したら無垢な頃には戻れない。贖えない罪はないというが、償ったところで穢れは拭えない。私は穢れているという自覚から逃れて生きられはしない。罪に鈍感に厚顔無恥に生きたなら、その間だけはきっと自分の醜さを“忘れられる”のだろうけれど。それは他人に対して誠実ではない。予めこういう人間であることを知らせずに親しくなるのは、倫理的に問題がある、と思う。

 そうやって自分の罪深さをついて考えていると、やはり死こそが救済だなと思う。死んだら私の良かったところだとか目立った功績だとかだけがみんなの心に残る。死んて初めて私の穢れは浄化されて、私は認められるのだと思った。最期の言葉だとか若くして道半ばにとかなんとかで綺麗に飾られるんだ。まあ、私は誰かの神様になりたいわけではないからどうだっていいことかもしれない。
 安倍晋三は死んで完成されてしまったという話と友人とした。今の感覚では天皇崩御の際の当時の人間の気持ちはわからないけれど、でも多分似たような気持ちを我々は感じた。若きウェルテルの悩みを読んだとき、ウェルテル効果を理解はしたけど実感はできなかった。でも今になって「こころ」を読んで、日本で銃で人が死ぬところを見て、死が身近にあることを感じて、思春期に漠然と感じていた希死念慮が、今、明確な意志に変わり得る気がした。
 私は孤独に、罪に苦しみながら生きるしかない。言葉にしたら仰々しいけれど、でも本当にそうだと思う。それが道だと思う。だから楽に生きたいのなら、今すぐにでも死ねば助かるのだと思う。自殺はどこまでも自分勝手な行為だ。独りよがりで、悲しいのはその死を受け止めなければならない生きた人間たちだ。ならば死ねない。私のせいで私の大切に思う人のこころが陰るのは、悲しいことだから。

 かけがえのない人間なんていない。誰だって替えが効く。我々は刹那的にしか生きられない。その刹那しか永遠を手にできない。わたしのこの気持ちはどこまで本当なのだろう。性欲に基づく気持ちは決して嘘ではないけれど、でもどうしても切り離して考えたくなってしまう。
 それは私が肉欲を穢れだとどこかで意識してしまっているからなのだろう。私にとって性欲は、私のは歪んだ自己承認欲求と混ざった性欲と、(足切りラインを満たした女なら)誰でもいいからセックスしたいという男の欲望の印象がどうしても強いのかもしれない。
 好きだからセックスしたいと思って、大切な人とだけ身体を交える人間のなんと尊いことか! 性は、本能は大事な人とのみ共有すべきだ。まあその大事な人との関係も、特に青年期には刹那的なものでしかないのだが。
 本当に大切にしたくて、その人の幸せを願うとき、わたしはどういう気持ちを向ければよいのだろう。本当に好きなのに、私はその時自分も一緒に報われたいと思ってしまう。それはわたしが彼を異性として好きだから、性的に愛しているからなのだろう。でもそれを手放しによしとはできない。

 いろんなことに悩んで、それについていちいち考えて自分なりの落としどころをつけて、でもそれは全て詭弁だから、ふと腑に落ちなくなればまた悩む。死だけが救済だ。まあ苦しみもがくことこそが生きることだと私はまだ信じているので、それで当たり前なのだが。
 でも私の苦しみに他人を巻き込むのは違う。わたしは孤独にあるべきなのに、他人といることを望んでいて、それを強いている。強いているというのはおこがましいかもしれない。彼は自分の意思で一緒にいてくれているのだから。でも、本当に彼を思うのなら、自由にしてあげるべきだと思う。堂々巡りだ。

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