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私にとって「言葉」ってなんだろう

この頃、「私にとって『言葉』ってなんなのだろう」ということをよく考えている。

本来の「言葉」とは

言葉は本来、伝達手段として使われるものだと思う。

よく「言葉にしなければ伝わらない」なんて言うけれど、まさにそれ。

そして私も、もちろん言葉を伝達手段として使っている。

そうなんだけど。

それだけじゃないんだよな。

私にとっての「言葉」

じゃあ私にとっての「言葉」ってなんなのだろう。

考えてる。まだ答えは出ていない。

だけど、ぼんやりと思うのは「思いそのもの」なんじゃないかな、ということ。


私は昔から「言葉を口に出して伝える」より「言葉を文字にして伝える」方が得意だったし好きだった。

「口に出して言うのが恥ずかしい」というのもあったけど、「文字に思いを乗せることができる」というのが好きで。

たとえば高校のときなんかは、学校で友達と散々しゃべっているくせに、家で手紙を書いて渡していた。

そのときの手紙の中身なんてまったく覚えていないし、多分どうでもいい内容(当時はどうでもよくなかったかもしれないけど)だったはず。

ただ、言葉にならない「思い」を伝えたかった。何かはわからないけど、「思いそのもの」を伝えたかった。


それは大人になってもあまり変わっていないのかもしれないな、と思う。

そのことに気づいたのは、実はこのnoteを始めたから。

現在仕事柄運営しているブログ(https://officeyuka.com/)や、数年前に運営していたライフスタイル系のブログ(今は閉鎖してしまった)は、前提として「役に立つことを書かなければ」というのがあるし、あった。

だってよく言うやん?「素人の日記みたいなブログなんて誰も読まない」って。

なので一生懸命「役に立つように」と思って記事を書いているわけだけど、そうするとどうしても客観的というかよそよそしいというか、いわゆる「書き手の顔が見えない」文章ばかりになってしまっていた。

もっと言ってしまうと「自分の思いがこもってない」文章ばかりが出来上がってた。

そう、それがすごくイヤだったんだ!

ということを、noteを書き始めてから気づいてしまったのだ。


noteは最初から「自分の心や思いを語る場所」と決めていたし、自己紹介でも「役には立たない」と宣言していたから、ある意味思いの丈をぶつけることができた。

誰かによく思われるためでも、誰かの役に立つわけでもない、ただ私の思いだけを伝える文章。

それは、多少文章が荒削りでも、私が私の心をえぐって、血を流して書いたものだから思いが乗る。強い思いのエネルギーが乗る。

そして、本当に私が使いたいのはこっちの言葉のほうだった。

血が通った言葉、強い思いのエネルギーがこもった言葉。

その言葉は波動になり、たとえパソコンやスマホの画面越しであっても読み手に伝わる。

それが、私にとっての言葉だったんだ。


お役に立てることはもちろん嬉しいので、今後もブログは書いていく。

でも、言いたいことも言えないこんな世の中(笑)で、キリキリ胸の痛むような思いを伝え続けるのもいいんじゃない?と思う。

私の思いはまだ荒削りだ。だけど、だからこそ、このnoteという場所でこれからも書き続けていきたい。

いつか振り返ったときに、私の思いが研ぎ澄まされていく過程がみれるかもしれない、という期待も込めて。


最後までお読みいただきありがとうございます! 一人でも多くの方に思いを伝えるためにこれからも頑張ります!