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「勉強ができること」に対して抱き続けた劣等感をやっと手放すことができた話

勉強ができることへの劣等感。

「そんな贅沢な話があるか」と思われるかもしれないが、私にはあった。しかもごくごく最近まで。

今回は、そんな「勉強ができること」への劣等感と、その劣等感をやっと手放すことができたお話。

勉強ができることに劣等感を抱いた理由

小さな頃から勉強のよくできる子供だった。

自分で言うのもなんなのだけど、小学校の頃は80点台すら滅多に取らなかったし、中学校でも成績は常に上位。高校に至っては3年間学年1位をキープし続け、大学では奨学金の話が大学側から来たぐらい。

じゃあそれが自慢だったかというと全く逆で、私は勉強ができることがいやでいやで仕方なかった。


思い出してほしい。子供の頃に人気があったのは、決して「勉強のできる子」ではなく「スポーツができる子」だったり「話が面白い子」だったことを(関西では特に「話が面白い」は重要だった)。

この点で、私は完全な劣等生だったのだ。

運動は大の苦手。足は遅いし逆上がりも(いまだに)一度だってできたことがない。逆立ちも、跳び箱も、大嫌いだったし苦手だった。

話だって面白くない。子供の頃はものすごくおとなしかったから自分から話すこともなく、友達も少なかった。笑いなんて取れるわけもなかったし。


さらに、子供ながらに感じていたのは、勉強ができる子に対するなんともいえない風当たりだった。

本当はそんなことはなかったのかもしれないけれど、私は「勉強ができてすごいね」という言葉の裏に「ガリ勉ってダサいよね」的な含みをずっとずっと感じていた。


そして。

ここが一番のキモなのだが、実は私はそこまで必死になって勉強しなくても人より勉強ができてしまっていたのだ。

この衝撃的な事実にはつい最近やっと気づいたところで、だからこそ劣等感から解放されたわけでもあるのだけど、本当にそうだったのだ。

明らかに私より一生懸命時間をかけて勉強していている友達より、私の方がテストの点数は良かったし、だからこそいつも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

みんなあんなに頑張ってるのに、頑張ってない私の方が点数良くてごめんね、みたいな。


もちろん、子供の頃はこんなことまでは考えられていない。

ただ、逆に言葉にできない様々な思いを抱えた結果、私は「勉強ができること」にひどく劣等感を抱くことになってしまった。

1つ目の転機:社労士試験合格

勉強ができることへの劣等感を解放する最初の転機になったのは、社労士試験に合格したことだ。

このとき、私は生まれて初めて「本気」で勉強した。

なぜなら、何があっても絶対に合格し、社労士になりたかったから。

おそらく普通に勉強していても受かるだけなら受かったと思う。

でもそれではダメだった。圧倒的な力をつけて絶対に合格したかった。

だから死にものぐるいで勉強した。人生で一番勉強した。

その甲斐あって無事合格。合格したことはもちろん嬉しかったけど、それよりも私が得たのは「勉強することそのものへの自信」だった。

それは今まで感じたことのない感覚で、「やればできる」とか「努力は報われる」といったものではなく、「勉強ができてしまう」から「自分の意思で勉強し掴み取った」というようなもの。

嬉しかった。資格を取得したことよりも嬉しかった。

2つ目の転機:自らの強みと弱みに気づいた

勉強ができることへの劣等感から完全に解放されることとなったのは、自分の強みと弱みを知り、受け入れることができるようになったからだ。

何度も書いているが、私はストレングスファインダーの個別セッションを受けて以降、物事の考え方がひっくり返った。

これまでの人生、私はずっと勉強ができることに対して劣等感を抱き続けてきたわけだが、個別セッションを受けることによって「勉強ができるというのは私にとって強みなのだ」とようやく受け入れることができた。

反対に、運動ができない、話が面白くない、営業が苦手など(まだまだあるが)、自分の不得手な部分についても潔く認められるようになり、そういった面が得意な人を心から「素晴らしい」と思えるようにもなった。

要するに、

「あなたもすごいし私もすごい」

とやっと思えるようになったのだ。

それだけではない。

さらに、この与えられた才能をなんらかの形で社会に還元していかなければ失礼だとさえ思うようになった。


随分と傲慢に聞こえることだろう。

でも、これは私に限った話ではない。

誰でも自分にしかない唯一無二の才能がある。

それは絶対に出し惜しみしてはいけないのだ。

なぜなら、その才能を待ち望んでいる人がいるから。

そして、その才能は活かされることを待ち望んでいるから。

最後に

この記事は「私勉強できるねん、すごいやろ」ということが言いたかったわけではない(そう聞こえてしまったのなら申し訳ない)。

知ってか知らずか、自分の才能を隠して「私なんて全然ですぅ」みたいな謙遜をするのはあまりにももったいないということが言いたかった。

才能は活かしてなんぼ。そして、誰にでもその人にしかない才能が必ずある。必ずだ。

出る杭になって打たれることを恐れるのではなく、どんどん自分の才能を出してほしい。

いつかそのお手伝いができることを楽しみにしている。


最後までお読みいただきありがとうございます! 一人でも多くの方に思いを伝えるためにこれからも頑張ります!