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【NO.0135】 戦争=生活 の公式が崩れてしまった

 戦い、争う。
 人々は、何故、この行為を繰り返すのだろう。
 太古から、人々は生(活)きるため、最優先してきたこと。それは、食べること。種の保存が生きるものにとって本能的に最も過酷で熾烈なもの。食べれなければ死のみしかない。
 食糧獲得の手段は時代によって変わる。ほとんど人は進歩だという。しかし、人の身体にとってはどうなのだろう。本来、食べるべきものでないものも、人は、進化?して食べれるようになってきた。今では、食べ物を創り出す世界になってきている。

 今、地球上に100億人にも迫る人が生命を維持のために、食を必要としている。
 かつて、人の数=力のため、人の数を増やすことが重要となり、長老やリーダーが現れ、グループの形成が行われ、そのグループが国という形になっていった。そして、安定的に食料確保の道として、農耕が行われるようになり、農耕に適した地を求めるようになる。そのために民族の移動が行われ、その地に従来から住んでいるものとの土地の奪い合いが行われる。それが争いを呼び、人々が、命を賭けて戦う事になる。その繰り返しが今も続いている。その人を殺戮し、土地を奪う行為を、正当化するために宗教というものが生れてきたのだろう。「神よ、許したまえ」という言葉に表れていると考える。

 しかし、近年になると、土地の奪い合いにビジネスというもう一つの意義が生れてきた。
 生きるための必要最小限の戦いから、人間の欲望のための戦いへと変化していく。
 人々は、あえて、戦いを引き起こし、そこに利益が生み出されることに味を占めた。そのために、直接的な殺戮より、事前に策略を積み重ね、人々を、隷属させる方向へ向かっていった。その代表が植民地政策といわれるもの。その政策では、人々は、労働力あるいは奴隷として、先進国支配層の利益のために働く重要な存在となった。ここで、人口は爆発していく。
 かつてはある意味、戦争とは単純な殺戮行為だったために、自然増との差も少なく、人口は一定を維持していた。

 そして、今、地球上の人口が増えすぎたとして、人口削減なるものが頭をもたげてきた。少数で一定数の支配層は、その他の人々、特に自分たちとは違う人種を、地球の存続のために不要な存在とみなすようになってきた。
 この不要な存在を減らすために、戦争という手段が使われるようになってきた。とりあえずは、食糧確保のためや領土拡大のためという前提の下に争われるのだが、最大の目的は、表に出ることはなく、結果として、そのターゲットなった民族が衰退していくことになる。そして、その戦争も、現場での殺し合いというより、経済や情報などを駆使し、さらには人の身体を壊していくことにより、生殖という行為を人間から奪っていく。そして、より力のあるものが、当たり前のように勝っていき、その戦いの根拠を作り上げ、正当化していく。

 いくら、人として正しい主張をしていても、力の前には全くの無力となるのが、今の世の中で、私たちは、こうした世に中を、生き抜いていかなければいけない。ただ、私が1人生き残ったとしても意味がない。1つの民族が生き残るため何をするべきかが問われる。
 今、日本はこの問いかけをされている真っ最中なのだが、人々は気付かない。残念だが、今のままでは、1世紀後かもしれないし、30年後かも知れないが、日本民族は、とある国に浄化され、最終民族消失ということになる可能性が出てきた。歴史から考えるとあり得る話で、一瞬にして歴史上から消え去った民族も多々ある。
 そうならないために、1人1人ができることを考えていかないといけないのだが、今、日本人、考える力も奪われてしまっているようだ。何も考えずに、権力から言われれば、いくら体を蝕むとされるものですら、取り込んでしまっている。これではダメだ。
 「抗う」ということはその国のためになることで、決して悪でもなんでもない。「抗わない」民族の結末は悲惨になる気がする。

 今、パレスチナの地で、起こっている戦い。そして、そのあおりを食ったように見捨てられるゼレンスキー。
 9.11も誰のため?何のため?
 フセインやカダフィはなぜ殺されたのか?
 ヒトラーやレーニン、毛沢東は、何故、存在したのか?

 誰のための戦争なのか。それはごく一部の生活のためにある。

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