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お母さんとの別れ「どうやって超えたんですか?」32-2024/3/27

 「どうやって超えたんですか、、、?」
 ほんの最近お母様との急なお別れをした方からの言葉。「あなたはお母さんとの別れをどうやって、、?」と。その方は友人ではない。とある居場所的な場で出会った方の言葉。応えは、しどろもどろに、、、。ろくなことを言えなかった。申し訳ない。
 
 正直、超えてはいないのだ、私。そう自分の中で認めることができたときに、少し心が軽くなったのを覚えている。グリーフは解放されない。私はいつでも涙が溢れてくる。解放される「時」はこない。
 
 でも、こなくてもいい。
 別れた家族たちは私の中に生きているから。
 そんなふうに思えたのは、クラウンになってからかもしれない。
 毎日泣いたっていい。自分の感情をいっぱい出していい。それはきっと、生きているからできること。悲しくて哀しくても、お腹だってすく。そのときは、大好きな肉まんや餃子を食べる。すこし幸せな気持ちがやってくる。我慢して涙をこらえていると、大好きな味を忘れてしまう。「大好き」を忘れないためにも泣くのだ。ぬいぐるみのスヌーピーを抱きながらもよく泣いた。スヌーピーのふわふわは、いつでも私を助けてくれた「大好き」だ。
 
 母が旅立ったのは1985年3月29日。喪主は父だったが、病気の後遺症による障害の重かった父は葬儀には出られなかった。喪主の挨拶は、父の代わりに亡き叔父(母の弟)がしてくれた。「挨拶中に絶対泣くなよ!おじちゃんが泣いてしまうから」と言われたっけ。葬儀をすませた途端、姉は家中を片付け始めた。バッタンバッタンいわせて、あれーそれも捨てちゃうのー?!というくらいモノを捨てていた。今思えば、それが姉の「超え方」だったのだろう。
 忌引が終わり、仕事に復帰。毎日毎日、親の介護や医療費捻出の相談にのる仕事。不幸な話が多かった。だが、意外にまいらなかった。ひとに貢献しているかもしれない感覚(実際に貢献していたのかは不明だが、、)は、実は私を助けてくれたのだろう。
 姉のバッタンバッタンの片付けも、病院でのソーシャルワーカーの仕事に戻れたことも、今にして思えば、自分を救ってくれていたのかもしれない。

 「仕事に行けない、
  人にも会えない・話せない、
  食べる気力もない、眠れない、、、」
 冒頭の言葉を投げかけてくれた方が、そんな状態なら、どうか専門家の力を借りることに躊躇しないでほしいと思う。
 自分が、「安心、自信、自由」でないときは、信頼できる人=信じて力になってくれる人に相談するんだよ、、、とCAPワークショップ(子どもが暴力から自分を守る方法を学ぶプログラム)では伝えている。おとなも同様だ。大切な人との別れは、人の心とからだを極端に傷つけることもある(CAPプログラムは、暴力を人の心とからだを傷つけることと定義している)。信じて力になってくれる専門職との出会いを求めてほしいと思う。
 
 あさって3月29日は、40回目の母の命日。
 冒頭の言葉の方、あせらずに、お母さんとの思い出の数々を毎日噛みしめて、涙が出てくるときは、いっぱい泣いて、泣いて泣いて、そして、少しでも心安らぐ好きなもの=自分の「大好き」を味わってほしい。食べ物でも歌でも絵でもアイドルでも好きな場所でも、なんでもいい。心通い合う友人と話せるなら、それはとてもいい。感情を吐き出すことを怖れずにいてほしいと思う。これが、母の命日40回めを迎える私が絞り出したメッセージだ。
(表紙は、わが家のスヌーピーや友人手作りのテディベアたち=私の「大好き」たち)
 

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