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パッチのFishくんはオコゼみたい13-2022/08/07

 クラウンの師匠まりちゃんとのつながりから出会えたパッチ・アダムス氏(以下、パッチ)。パッチ帰国から1か月以上も過ぎ、同行できたクラウンツアーも懐かしく思えてきた。そんなとき、パッチとの時間があったからこそと思える「感動?オモシロ!倍増体験」が続いた(その1は12-2022/07/27に)。その2を書こうと思う。まさかまさか、日本にこんな面白い祭りがあったとは!!

 先日、都立大学オープンユニバーシテイのオンライン講座「『笑い』を考える-なぜ笑うのか、何が笑えるのか」の第1回を視聴した。まりちゃんは、ケアリング・クラウンは人を笑わすことが第一の目的ではないと教えてくれた。けれど、ユーモア盛りだくさんのかかわりは、人のいろいろな感情を呼び起こす。とくに、人が本来もっているはずの楽しんだり喜んだりする感情の川が涸渇している人には、その川の水をもいちど流して潤ってもらいたい。悲しいことや希望をもてないことがあったとしても、笑う力があることを思い出してほしい。そんなことへの手助けがクラウンにはできそう。というわけで(?)、「笑い」の講座を受けてみる気になった。

 講座第1回は、「笑いとは何か-思想と文学の知見から」のテーマで、都立大学のフランス文学専門の西山雄二先生による講義だった。
面白い祭りの話は、講義の最後の話題「神と笑い-キリスト教文化と日本文化-」のところだった。文化によって笑いは異なるという話だ。西洋の笑いが滑稽や侮蔑、優越感とすると、日本人の笑いの本源は、招福や魔除で、笑いは、「快楽や幸福をもたらすもの。生活上の幸福、集団生活における繁栄、宗教的意味」という。そして、三重県の祭りが紹介された。

↑三重県のホームページより

 それは、オコゼを服の中に隠すように持った人々が、オコゼをチラ見させながら神様に笑う祭りである。三重県のホームページには、「三重県東紀州地域の伝統行事:山の神講(オコゼ):尾鷲市」と紹介されている。現在「烏滸がましい」という言葉のみに残る「烏滸(おこ)」とは、「馬鹿げていて、あるいは滑稽で人の笑いを買うような有様」だそうで、オコゼはこの「烏滸」に由来するらしい。
 講義では、民俗学者柳田國男の解釈が説明された。烏滸に由来するオコゼは、「神聖さと穢れ、恵みと災い、美と醜といった二元性を媒介する、道化の力をもつ」。烏滸の者のオコゼは、「人間からも神からも笑われることで、あらゆる聖と俗、美と醜を引き受けて、幸福を生み出す」のだという。
 
 この祭りの写真を見て、パッチがクラウンとしていつも一緒にいるというおサカナのFishくんを思い出し笑ってしまった。クラウンツアーの初めにFishくんをなでなでして、「友だちなんだ」と教えてくれた。パッチは、Fishくんと大笑いしていたわけではない。でも、オコゼを神とともに笑って幸福を生み出すという日本の祭りとパッチの姿が重なった。先生は、「神様といっしょに笑い、過去から未来へとこの世界を力強く笑いながら肯定していく、文化的な知恵」と解説してくれた。日本の宗教的な意味合いを含む点で次元は同じではないかもしれない。だが、パッチの姿や振る舞い、Fishくん含めもろもろのユーモア(烏滸の者=オコゼにあたる?)とともに、私たちと力強く笑いながら、どの人をも大切に想う、肯定していく、、、私の頭のなかでは、自分が理解したパッチの世界観ととんでもなくだぶった。

 この講義での「笑いの分類」には、「自然発生的笑い=受動的笑い、意識的に創造する笑い=能動的笑い、否定を肯定に向け変える笑い(受動的・能動的笑い)」という説明もあった。3つめのところでユーモアの説明があった。
 ユーモアとは、
「他人に対してでも、自分に対してでも、大人が子供に対するような姿勢で臨む。本来笑われてしかるべき状況を、それでいいと肯定し、認めていこうとするところから生じる笑い。深い人間性や、大人の姿勢から生まれ、人を許し、人を救う笑い」という。
 後段の「人を許し、人を救う笑い」に唸った。パッチの顔が浮かんだ。さらに、ユーモアには「自分も他人もひっくるめた、万物の存在そのもの、運命そのものに向けられるユーモア」があり、先生は、「世界そのものをユーモアに包み、一段高いところから世界を肯定し直す」との説明を加えた。パッチの派手派手衣装で振る舞う姿が頭の中の映像に拡がった。
 
 なんだかできの悪い学生レポートみたいになった。クラウンさっちーの友だちとして、Fishくんみたいなオコゼくんをさがしたくなった。笑いは招福、そして魔除け。コロナ感染拡大早くおさまっておくれ~わっはっはっはー♪
(表紙の写真は。2022年6月24日クラウンツアー写真の中のFishくんといっしょのパッチ)

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