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オリンピックと家庭電化-自分史メモ

私の小学校低学年は昭和30年代終わり~40年代初頭、高度経済成長が庶民の生活にも及んできた時代だ。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫、電気炊飯器、トースター、掃除機、電気ごたつなど、それまでになかった各種の家電(「電化製品」と呼ばれた)が家庭に普及した。
それ以前にも電気は来ていたが、もっぱら電灯とラジオのためのものだった。照明を点灯する時に「電気をつける」と言うのはこの名残だろう。

テレビ

テレビはブラウン管(CRT)を使ったもので、画像はモノクロだった。リモコンはなく、本体のチャンネルをガチャガチャと回して選局した。東京では1がNHK、3がNHK教育(Eテレ)、4と6と8が民放、そのうち10がふえ、最後に東京12チャンネルができた。

原則として屋根にアンテナを立てるので、近隣のテレビの有無は一目でわかり、購買欲をあおっただろう。アンテナとテレビはフィーダー線と呼ばれる平たいケーブルで繋がれていた。中には「真空管」と呼ばれる白熱球のような部品が使われていた。父は電気店に勤めていてテレビの設置や修理も担当していたので、家には真空管や工具の入ったトランクがあった。

東京オリンピック

アンテナ以上にテレビの購買欲を煽ったのは東京オリンピックの開催だろう。1964年の10月に行われた。大人も子供もオリンピックに熱中した。盆踊りに「東京五輪音頭」が加わった。
聖火が通るというので国道まで見に行ったのを覚えている。すごい人出だった。

このオリンピックに関して、私自身の興味深いエピソードがある。
多分開催前、私は「近所の子どもたちと一緒にオリンピックごっこをしよう」と思いついた。各競技に使う道具などを手作りし、誰がどの競技に出るかを決めた。
私は彼らと何の打ち合わせもしなかった。打ち合わせが必要だということがわからなかったのだと思う。
もちろんそのオリンピックごっこは開催されなかった。

その他の電化製品

洗濯機は洗濯槽があり、モーターで水をかき回すもの。脱水機はなく、洗濯物を2個のローラーに挟んでハンドルを手で回し、押しつぶすように水を絞る「絞り器」がついていた。洗剤は「粉石けん」だった。

冷蔵庫は1ドアで冷凍庫はなく、製氷機があるタイプ。家で氷が作れるのは画期的なことだった。生鮮食料の買い置きができるようになったのがそれ以上に画期的だったことは言うまでもない。

電気炊飯器は水と米を入れてスイッチを押すと自動的にご飯が炊きあがるという、当時としては夢のような道具だったと思う。かまどやコンロでの炊飯は時間がかかる上技術が必要で、洗濯(盥で洗濯板を使って手で洗う)とともに家事の中でも大変な作業だった。

トースターは縦型で、両サイドを開いて食パンを載せ、閉じて真ん中の電熱線で焼くもの。
掃除機はあまり基本構造が変わっていない気がする。
電気ごたつは赤く光っていて、「赤外線は赤い」という誤解を私に与えた。

明るい未来

次々と増える電化製品、テレビから流れるそれらの広告と番組、オリンピックのような大イベントとそれに伴う新幹線や高速道路の建設。

昭和40年代初頭は、明るくて輝かしい、科学技術の発達した未来社会が訪れるだろうと信じるに十分な時代だったと思う。

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