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幼稚園あるいはその前-自分史メモ

幼稚園

幼稚園には年長の1年だけ通った。2年保育の子供が多かった。近所の子供の殆どはそこに通っていたように思う。
園のバスで通う子供もいたが、私は徒歩だった。一度、帰りに少し遅くまで残っていたらバス通園だと思われてしまい、バスを待つ列?に入れられて、どうしたらいいか分からずに困ってしまったことがあった。

運動することは苦手で、園庭ではひとりで砂遊びばかりしていたような気がする。何かの折に「○ちゃんは素直だねえ」と言われて、素直という言葉を知らず「すなおって、砂遊びするから?」と答えたというエピソードがある。

絵を描くことが好きだった。折紙も好きだった。そういう、時間をかけて丁寧に、という系の作業は(時間切れは別として)問題がなかった。

どちらかと言えば引っ込み思案な子供だったが、人前で発表することには抵抗がなかった。鉄道記念日(10月14日)に鉄道唱歌をみんなの前で歌った。幼稚園児が古い文語の歌を延々と唱うのは、かなり突飛な行為ではなかったかと思う。

家での生活

当時、父とそのふたり弟は割と近くに住んでいて、しばしば家で一緒に飲酒していた。カラオケのない時代、飲むと手拍子で歌い出す。歌は軍歌や歌謡曲などが多かった。
私はよくそこに混じって歌を唱っていた。だから歌うことに抵抗がなかったのかもしれない。記憶には全くないが、ごく小さい頃、祖母と一緒にのど自慢大会?に出たこともあったらしい。

本は好きでよく読んでいた。絵本のほか、幼稚園で毎月「キンダーブック」という本をもらって読んでいた。ひらがなのほか、カタカナと簡単な漢字程度は読み書きできるようになっていたと思う。

家族は概ね私の本好きに好意的だった。母も本が好きだった。父は「これからは女も博士や大臣になる時代だ」と言った。祖母は自分が文字を習えなかったので、私が文字を学ぶことを喜んだ。

祖母は当時70才ぐらい。「洗い張り」の内職をやっていた。
「洗い張り」は着物の洗濯方法で、まず一度着物をほどいて、しつけ糸で縫い合わせて平らな布の形に戻す。この工程を祖母は内職として引き受けていた。老眼鏡をかけていた。糸通しや、しつけ糸のカセを巻き取る手伝いなどをした記憶がある。

ほかにも「荷札」の内職をしていた。
「荷札」というのは、小包を送る際にくくりつける送り先や発送者名を書くタグのことで、紙片の穴に細い針金を通したものだ。この、針金を通す作業を内職でやっていた。母や私も手伝った。

私が幼稚園児のとき、弟が生まれた。母は私のときと同じ産院で弟を産んだ。私の兄弟は彼一人だ。
それ以降、母は弟の育児で忙しくなり、私の教育は父が関与する比率が高まった。

昭和30年代、「男女平等」という言葉はあったが、人々の意識はまだまだ男尊女卑のままだった。性的役割分担はむしろ強化されていった。
しかし、年の差のせいか父が教育を担当したせいか、弟が生まれても私はあまり「女」扱いされなかった。そのあたりのことは小学校以降に触れるとして、一つだけ書いておきたい。

私の名前は、男性にも女性にもつけられるものだ。
私が生まれる時、父は男の子の名前しか用意しなかったらしい。女の子が生まれたので、その中から使えるものを選んだという。
母はその際、表記をひらがなにしてくれるよう(その方が男に間違われない)父に頼んだが、聞き入れてもらえなかったそうだ。

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