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小学校入学以前-自分史メモ

汽車に乗った時のこと

曾祖母(母の祖母)は戦中に栃木県に疎開して、そこにずっと住んでいた。なので私にとって「田舎」というのはその曾祖母の家だった。
多分3才か4才の頃、そこに行くのに上野から汽車に乗った。

で、多分その時の記憶だと思うのだが、私は一度乗った親が駅弁などを買いに列車を降りることをひどく怖がった。発車までまだ(おそらく)30分も時間があるのに、だ。

「大丈夫だから」と言われても、「もし列車がいきなり走り出してしまったら」という心配を手放すことができなかった。おそらく、「予定外のことが起こること」に対する不安が強かったのだと思う。

健康優良児?

始終病気ばかりしていたのに、1才の頃には「健康優良児」として表彰された、とことあるごとに聞かされた。奇妙な話だ。

昭和30年代前半、まだ「栄養」とは「カロリー」のことであり、太っていることがよい(栄養失調でない)ことだった。近所の駄菓子屋(コンビニはまだない)には派手な色合いの砂糖菓子や飴が売られていた。過保護な親たちはそれを「おめざ」と称して起床時に与えた。

そういうわけで、私の乳歯は虫歯だらけだった。
最初に行った歯医者はとても怖かった。怖かった、ということしか覚えていない。
歯磨きは苦手だった。手の動かし方がよくわからなかったのだと思う。うがいも苦手だった。

台所とトイレ

家には洗面所がなかった。うがいや洗面は台所の流しでやった。
流しは石造り?で、ナメクジがいた。水は大家さんからホースで引っ張ってきていた。

台所には朝顔コンロ(鋳鉄製のガスコンロ)があった。まだ七輪もあった。そして、木の冷蔵庫があった。電気ではなく氷を入れて使うもので、氷は少し離れたところにある「氷屋さん(製氷所)」で買ってきていた。熱が出るとその氷を砕いてゴム製の氷枕に入れ、その口を金具で挟んで閉じていた。

トイレは和式でくみ取り式、下はそのまま便槽だった。
またぐのがとても怖かった。
トイレの電気は(多分)20Wの白熱球で、薄暗かった。トイレットペーパーはまだなく、「黒ちり紙」というごわごわした灰色の再生紙を使っていた。

怖がりの子供

こうしてみると、子供の頃の私はひどく怖がりだ。
夜の暗がりも怖かった。お化けも怖かった。
親戚と旅行に行って、旅館の庭にある池にかかった手すりのない石橋が怖くて渡れなかった事を覚えている。

決して豊かとは言えないが、貧困にあえいでいたというわけでもない家庭だったと思う。少なくとも子供時代に衣食に困った記憶はない。
小さい頃から繰り返し聞かされた戦争中の話が、私に影響を与えたのかもしれない。
それとも、その頃から私にとって、世界はよそよそしくなじめないものだったのだろうか。そうは思いたくないが。

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