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幼時の記憶-自分史メモ

ASD当事者として話をする際、子供時代どうだったかを聞かれることがある。しかし、約60年前のことなので、記憶はかなりあいまいだ。
それに、後から聞かされたり写真を見たりして「自分の記憶だ」と思っているものもあるだろう。それを前提に「覚えていること」を書いてみる。

ごく初期の記憶

私が生まれたのは昭和30年代前半、東京都の東端部近くの「下町」というより「場末」といった感じの所だ。家は古い借家で、裏にはポンプ井戸があった。水質が悪いため飲用不可で、洗濯などに使われていた。

私は2才くらいだろうか。その井戸端に立っているのを覚えている。多分近所の子どもたちと水遊びをしていたのだと思う。服装ははっきりしない。

もうひとつ、おそらく台風だと思われるが、真っ暗な(おそらく大雨の)中、父の勤める駅前の電気店に避難した記憶が微かに残っている。
当時、大きな台風が来れば床下浸水は珍しくなかった。トタン屋根はよく雨漏りした。

幼時の私と家族

私の父は大正12年生まれ、太平洋戦争で召集されたが国内の防空部隊に配属され、戦後しばらくして駅前の電気店に勤めた。電化製品の普及期で、電気店は繁盛していた。父が自転車で帰宅すると、私は「ひとまわりですから」と言って乗せてくれるようねだっていたのを思い出す。
その頃の父の趣味は写真で、私の乳幼児期の写真は大量にあった。

私の母は昭和4年生まれ、幼少時は日本橋の祖母の家に預けられていて、戦中は女学校で勤労動員、戦後はGHQや米系銀行で働いていた。24才で父と結婚、退職。私が初めての子供だった。

家には祖母(父の母)も同居していた。明治25年、浅草馬道の錺職の娘として生まれ、7才で川越の近くの農家に里子?に出された。子守などをして働き学校には行かなかったが、その家の子供の教科書を見てカタカナの読み書きを覚えたという。枕の製造販売をしていた祖父と結婚して男子3人を産んだが、祖父は早世した。

両親は長男長女(それぞれ弟がふたり)で、私はその最初の子供だった。大人3人にややもすると過保護に育てられた。家には風呂がなく銭湯に通っていたが、冬は湯冷めをしないよう何重にも厚着をさせられていた。

それは、私の身体が弱かったからかもしれない。月に1度は熱を出して小児科に行くほど病気がちだった。しばしば扁桃腺を腫らしていたし3才の時には麻疹と肺炎もした。

お気に入り

多分3才頃、「字の積木」でひらがなを覚えた。正方形で片面にひらがなが、もう片面に絵が描いてあるものだ。記憶にはないがそれ以前にも私は本が好きで、絵本を母に何度でも読んでもらい、母が間違うと訂正していたらしい。以降、本好きは今に至る。

テレビはまだ家になく、隣家(大家さん)が買うとカメのアニメ(多分アメリカ製)を見せてもらってご機嫌になり、終わると「もっと」と言って困らせたようだ。

人形などはあまり記憶にないが、ただひとつ、叔父(母の下の弟)からもらったクマ(?)のぬいぐるみだけは寝る時にも手放さなかった。あいまいな記憶によると「チュク」と呼んでいた。語源はわからない。


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