介護サービスを使ううしろめたさが発生する様子
「義母が老人ホームに入ることになる」という文章はニュートラルすぎる。
実際のニュアンスは「義母に老人ホームに入ってもらうことになる」だろう。
というのも、私に財力があり、家が広く、介護の人を自費で雇用できれば、義母はうちに住み、老人ホームに入ってもらわなくて済むからだ。
うちには彼女の娘である私の妻もいる。
このような状況から、家族が老人ホームに入ることには、姥捨て山の要素があると感じる。
しかしもちろん、この考え方は間違っている。
老人ホームは安心して暮らせる場所であるから、「老人ホーム=姥捨て山の山」などではない。
それでも私は、義母を老人ホームに入れることにうしろめたさを感じる。
この気持ちが湧くのは、財力がないから、だけではない。
やはり私自身に義母と一緒に住みたくない気持ちがあるのだ。
したがって、どれだけ快適な老人ホームが存在しようと、うしろめたく感じる人にとってそこは、価値的に姥捨て山と同じなのだ。
捨てたという気持ちを払拭するために、「できる限りのことはしている」と自分に言い聞かせている。
しかしそれでもうしろめたさが消えないのは、捨てた事実が残るからだ。
姥捨て山という概念は、介護をする人の気持ちを測るのに便利である。
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