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今の唯物論は何が間違っているのか──新しい物質論から問い直す「現代自然弁証法試論」

[商品について]
―真の唯物論はどうあるべきか―
「自己運動」を基本的に神の御業として理解するヘーゲル、その「自己運動」に何の疑いを抱くこともなかったエンゲルス、そしてそれを今日まで引き継ぐ現代の唯物論者たちーーエンゲルスの自然弁証法には重大な欠陥があり、今日の唯物論者には「自己運動」「運動論」など唯物論弁証法の根幹に関わる重大な問題が残されている。本書は、前著でヘーゲルとエンゲルスの科学観や唯物論者たちの教条主義を鋭く批判した著者が、現代唯物論はどうあるべきかについて、物質論から自然の構造にいたるまで広大な現代自然科学の杜に分け入りながら、自然弁証法の根幹を問い直す。惰眠をむさぼる日本の唯物論界に一石を投じる示唆に富む試論。

[著者紹介]
竹之下芳也(たけのした よしや)
北九州大学名誉教授
1938年生まれ
専門 量子化学および科学哲学
著書「ヘーゲル、エンゲルスの科学観を葬り、唯物論者の教条主義を批判する」(文芸社)、「自然科学を哲学する」(22世紀アート社)
趣味:登山、バドミントン、園芸、合唱

我が伴侶、薬剤師竹之下玲子さまに捧ぐ

はじめに

 筆者は2019年秋に『ヘーゲル、エンゲルスの科学観を葬り、唯物論者達の教条主義を批判する』(文芸社)という書籍を世に問うた。現代唯物論の批判を網羅したものであった。そこでは、現代唯物論はどうあるべきかについてはふれる機会がもてなかったので、真の自然弁証法はどうあるべきかについて展開するのが筆者の責任と思い、つたない試論を世に問う次第である。

 まずこの書籍の題名を『現代自然弁証法試論』とした理由を述べよう。この書籍の目的は、真の唯物論はどうあるべきかを問うことである。したがって、『新しい唯物論』とか『真の唯物論弁証法』とかの題名が浮かぶ。しかし、ここでは物質の世界は自然そのものであり議論も徹底的に自然にこだわっているので、自然の中に「物質論」も包含されるべきと考え、『唯物論』という表題は『自然』の中に含まれるとして、このような表題を採用することにした。さらに単に『自然弁証法』では、従来の理論と何も変わらないことになるので、『現代』と修飾することによって、『真の』とか『新しい』の代わりになり得るかと思い採用することにした。用語についてもう一つ提案したい。唯物論では、しばしば「唯物弁証法」と表現されることが多いが、ここでは「唯物論弁証法」に統一したい。

 筆者は、1938年生まれで、安保時代に学生時代を送り、革新運動にいたく洗脳されてきた。そういう流れの中で学生時代にエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)を勉強することになったが、さっぱり理解できなかった。本来筆者は、理系の人間であるので哲学はほとんど理解できなかったのである。エンゲルスの自然弁証法が少しも理解できなかったからか、逆にエンゲルスの弁証法に大いなる疑いを持つことになったのである。化学の教員として大学に就職したのは良かったが、自然科学概論をも担当せねばならなくなったのが間違いの始まりであった。数年間は、自然科学一般を講義していたが、次第に自然科学の根本思想をも説かねばならないだろうと、新たな分野への挑戦を始めた。

 手始めに、エンゲルスにふたたび挑戦すると、またもや理解できないことだらけで、とどのつまりヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)にも手を広げることになった。そして、理解できないことが何であるのか次第に分かってきたつもりである。それは、ヘーゲルは「自己運動」を前提に論理を組み立てているらしいということであった。エンゲルスはあまり意識していないが、やはり物質は自己運動していることを当然として何も問題にしていないで力学を論じていたというべきであろう。そこが、小生には理解できない桎梏になっていたのではないかと気づいたのである。ヘーゲルにとっては、自己運動とは基本的には神の御業として理解されているので、それはそれとして辻褄が合っているのであろう。しかし、エンゲルスは唯物論を、自然弁証法を説いているのだから、当然神など信じないし、神を否定する立場にあるらしいはずなのに、実は物質の自己運動を疑わなかったようなのである。それは、今日の唯物論者達にも引き継がれてきているのであるし、唯物論者だけではなく広く世界の哲学者達も物質は自分で運動するのは当然と今も考えているらしいということである。もしそうでなければ、ヘーゲルやエンゲルスの議論に何らかの疑問を誰かがしたはずだからである。哲学界の中からはヘーゲルやエンゲルスについて何も疑問が提起されてこなかったことから、今日の哲学者達も自己運動をまったく疑っていないことが分かるというものである。

 この自己運動については、紀元前6世紀のヘラクレイトス(Herakleitos, B.C.501頃)が「いっさい万物は流れて、一つとして止まるものはなく、何ものもあるというのではなく、すべては成るものである」として、すでに「万物流転」説を提唱していたものに通じるものであった。今日の唯物弁証法はエンゲルス以来この「万物流転」の思想を高く評価しているのである。つまり、万物は流転しているということは、それは自己運動と同じと見なされているということである。エンゲルスも『自然弁証法』のなかで、すべてものが運動し、変化し、生成し、消滅すると断言する始末である。私の手元にある唯物論の解説書にも、根本物質が、自ら運動・変化して万物になるが、しかし根本物質はふえもへりもしない、すなわち物質不滅の思想を説いているのである。これらの「万物流転」という「自己運動」説は、今日の唯物論にもそっくりそのまま引き継がれているのである。

 このような状況を、最近2016年ノーベル賞物理学者スチーヴィン・ワインバーク(Steven Weinberg)は『科学の発見』(文藝春秋)のなかでゼノンの論法を批判しながら、『運動が不可能であるなら、なぜ物体は動いているように見えるのか』を彼らが説明しようとしていない点であると分析しているのである。これらの事柄は、本文の序編で詳しく追求されている。

 かくして、エンゲルスの自然弁証法には重大な欠陥があることが明らかになった。その一つ「自己運動」論が問題になっているのだが、唯物論にとってはまだまだ重大な問題が残されている。それは、運動論についてである。ヘーゲルは「運動のない物質」は考えられないというし、エンゲルスや現代唯物論者達は「物質は運動を持っている」かのごとく主張している問題である。これは、唯物論弁証法にとっては根幹に関わる事柄である。自然弁証法では、「物質系が変化するのは、その系の内部矛盾によって起こる」としなければならないのに、物質系の内部矛盾ではなく、単に物質の内部矛盾から運動が起こるというのである。この点を巡って物理学者達も巻き込んで、とりわけ古典力学の運動を巡って大混乱しているのである。というのも古典力学では物質は質点というもので、物質としては点状のもので内部など有り得ないものなのである。そのような物質つまり質点にどうして内部矛盾が生起するのかが大問題になっているのである。とどのつまり、弁証法的運動は古典力学では適応されないということになってしまっている始末なのである。

 さらに、本質論についても問題を提起せねばならないのである。ヘーゲルは本質は物質にあるというのだが、具体的な事象について何も提示できなかった。本質と現象について深く論じなければならないのに、本質とはどんな事象なのか少しも追求できなかっただけではなく、ただ因果律を分析しただけに終わってしまったのである。対立・矛盾が運動を引き起こすのだから、その対立・矛盾こそが本質でなければならないという弁証法の立体構造を何も明らかにできなかったのである。筆者はこのような問題点を解明しなければならないと思うのである。そして結論として、「物質系で内部対立・矛盾が生じ、それが本質となって現象としての運動を生起せしめるのである」というのが、自然弁証法の根幹にならなくてはならないと提唱する。

 真の自然弁証法はどうあるべきかの追求については、現代の哲学者達では現代自然科学はもちろんニュートンの古典力学すらまともに論ぜられないと思うから、彼らに真の自然弁証法を解明できることはとても期待できないであろう。先に挙げた筆者の仕事の継続としてこの問題も取り上げるべきかと考えられるが、事態はそう単純ではない。第一筆者は理科系の人間で哲学は全くのど素人なので、とてもまともな弁証法を展開できるわけがないのである。しかし、ヘーゲル、エンゲルスの運動論を批判してきたからには、その展開の結末に責任を持たざるを得ないと思われる。少なくとも、完全な形ではなくとも、道筋だけでも示しておかなければ無責任の誹りを免れないだろう。そういうわけで、非力をも顧みず、真の自然弁証法はどうなるのかに挑戦せざるを得なくなったのである。

 真の自然弁証法を展開する前に、「自己運動」説の行方を辿って問題の所在を明確にしておかねばならないので、序編に取り上げることにした。「自己運動」については、誰も定義していなくて、古代ギリシア哲学いらい自明のこととしてそれを大前提に論理が組み立てられてきたのが真実で、ここでは厳密な哲学の場なのにまったく常識的なレベルに立つのだから、門外漢の者達は呆然と立ちすくむ以外の方法がないのである。
 第1編では物質論を論じたが、現代自然科学とどう切り結ぶべきかに挑戦してみたけれども、問題はあまりに深く深遠なのでとても充分に課題に迫ったかはなはだ心許ないのである。第2編はこの著書のハイライトであるが、したがってヘーゲルの論理学批判から始めなければならないと思われるが、筆者の力量を遙かに超える事態なので諦めるしかない。例えば、ヘーゲルの有の弁証法では成が成り立つ根拠がまったく少しも示されていないなどであり、それは論理学の問題とどう関わるのかなどなどである。これらは、筆者には手に余る問題なので素通りして行くことにした。実は、筆者は第3編に力を注ぎたいところであるのだが、ここでも現代自然科学の奥深さにただただ立ち尽くすばかりであるが、理系の筆者には挑戦しなければならないのであろう。が、しかし、それはあまりに膨大であるので、またの機会に譲らざるを得ない。
 それでももう少しは議論の展開を望むかたは筆者が以前出版した書籍の改訂版の電子版『自然科学を哲学する』(KK22世紀アート、2021)を参考にして頂ければ幸いです。後半は自然の物質界の弁証法的な論理立てを試みた貴重な部分になっていると思いますので、大いに参考にしていただければ幸いである。

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