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コントロール

ひとをコントロール
はできない

ということが
本当に
わかっていただろうか

コントロールを
する
コントロールを
される

という言葉はあれど
言葉があるから

コントロールができると
うっかり思い込んでしまうのかもしれない

コントロールなんて
できない

とわかっているようで
それでもどこかで
コントロールしようとしてたり
してたんじゃないかって

ふと
思ったり。

対人関係で、
どうしたらわかってもらえるだろうか
どんな言葉で、声で、タイミングで、
と知恵を絞ることもあるけど

それは私自身の
コントロールであり、
コントローラーであり、
相手のコントローラーを
わたしは持っていない。
持つ余裕などない。

「私」というコントローラーで
コントロールできるのは、
ギリギリ、自分までで、
他人をコントロールなど
できるはずもなく。

うまくものごとをすすめられたら
気持ちがいい
けど、実は
うまく、すすめられてるのは
自分のコントロールだけで

私じゃない、
違うコントローラーのもとで動く他人は、
私がコントロールしたのではなくて、
それぞれのコントローラーにより、
違う選択ができて、
それは
やっぱり
自分のコントロール外であるのだ
という
当たり前のような事実。

「他」はコントロール不能ではあるのだけど
「私」が私を動かしたコントロールによって
大きかったり、小さかったり、
「他」に影響があって、
そうして、ものごとがうまくいくことも
たくさんある

でもそれと同時に
その影響の先にある、
「他」のコントローラーをもっているのは、
「私」じゃない
から
どうにもならないこともある
って
気づいたら

どうにもならないことがある
という結論だけど、

なんか
それでいいなー。
って
思えた。

どうにかしようと
もがきすぎても
どうにもならない
のは
コントローラーが
違うからなのだね。

だからこそ
ひびきあえたときは
実は奇跡的なことなのかも
しれないな

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