大條宗行(大條家第一世)
大條家第一世 大條宗行
通称:孫三郎
治家:二十七年
生誕:不明
死没:嘉吉二年(1442年)正月五日
諡名:徳本満春院殿大岳全古居士
父母: 伊達宗遠 (伊達家第八世)
兄弟: 伊達政宗(伊達家第九世 / 大膳大夫)、女(最上直家夫人)
妻:不明
子供:大條宗景(大條家第二世)
大條家の始祖といえばこの人、大條孫三郎宗行です。
応永二十二年(1415年)に伊達郡大枝邑(現 梁川町東大枝)を賜り、大條氏(大枝)を称しました。
宗行の具体的な治績は残されていませんが、伊達家中興の祖と言われる兄大膳大夫政宗を助け、各地で奮戦し、数々の武功を立てたものと思われます。なお、大枝邑を賜った、応永二十二年(1415年)は父の伊達宗遠(伊達家第八世)はもちろん、兄の伊達政宗(伊達家第九世/大膳大夫)、甥の伊達氏宗(伊達家第十世)もこの世を去っており、氏宗の子の伊達持宗(伊達家第十一世)の時代になっております。従って、大條宗行は伊達持宗から大枝の知行を拝領していると考えられます。伊達持宗は応永三十三年(1426年)大枝邑からほど近い、梁川を居城とし、八幡宮を造営したり、嘉吉元年(1441年)に上町に輪王寺を建立するなど、本拠地の伊達郡各地の整備を進めております。恐らくこの整備の一つとして大條宗行は大枝の地に置かれたのでしょう。そして、通称 孫三郎として知られていますが、この孫三郎には謎があります。南北朝時代の元弘三年(1333)に北畠顕家は伊達孫三郎入道道西(但馬伊達氏)に対して、大枝などの領地を安堵する書状を送っております。つまり大條家の初代である宗行がいきなり「孫三郎」と名乗っていることは、大枝の地を継ぐときの何らかの伝統があったのではないのかとも考えられます。
また、もう一つの謎として、伊達郡霊山町の大條館山(ダイジョウタテ)があります。伊達郡村誌によると、大條館は元弘三年前後に北畠顕家の麾下大條内蔵人、同五郎の居城であったとあり、また「北畠武鑑」によると、北畠顕家の寄合衆に大條内蔵人高成の名前が見られます。
この大條内蔵人は大條宗行が大條氏と称する80年近く前の人物である為に、(伊達)大條家と直接的なつながりはないと思われますが、「孫三郎」のように、大枝にまつわる何かしらの伝統はありそうです。
(なお、余談ですが大條内蔵同五郎の子孫は、山戸田八兵衛という名で伊達家第十七世 伊達政宗に仕えていたようです。)
『大枝から大條へ』に記載しました通り、大條家第六世 大條宗家が「大條」へ字を改めたと思われますが、この際に霊山町(大枝邑に隣接)の「大條館(ダイジョウタテ)」からインスピレーションを得て『大條(オオエダ)』という字に改めたという可能性もあると思います。
◼️参考資料
伊達宗行氏 「翠雨山房夜話(上)」 1988年
伊達忠敏氏 「大條流伊達家記録」1988年
佐藤司馬 「大條家坂元開邑三百五十年祭志」1966年
信達二群村誌
伊達郡誌
別冊歴史読本・辞典シリーズ<第11号>日本姓氏家系総覧
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