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「2-0は危険なスコア」の原体験。横浜マリノス vs 浦和レッズ(1998)

(※アイキャッチ画像引用:Jリーグ Data Site
(※文中敬称略)

ロストフの激闘

サッカーにおいて「2-0は危険なスコア」という風説がある。

先に2点を先制してリードしているチームが逆転負けを喫する事例に由来するもので、この言葉が一般化したのは2018年のW杯ロシア大会決勝トーナメント1回戦・日本 vs ベルギーの一戦といわれている。

初めてのベスト8進出を狙う日本は前半を0-0で折り返すと、後半3分、7分に原口元気、乾貴士がゴールを奪う。優勝候補のベルギーから2点を先取し、夜明け前の日本は大きな期待に包まれた。

しかし後半24分。ヤン・フェルトンゲンの高く弾いたヘディングが川島永嗣の頭上を超えてネットを揺らし、5分後にはマルアン・フェライニが中央でヘディングを叩き込み同点に。そして追加タイムに突入した後半49分、CKをキャッチしたGKティボ・クルトワのスローイングからベルギーは鮮やかな高速カウンターを発動。最後はナセル・シャドリがゴールを陥れ、劇的な逆転勝利を飾った。

この速攻は試合会場から「ロストフの14秒」と表現され、日本側からしてみれば「ロストフの悲劇」と言われることも多い。

サッカーはロースコアで進む競技であり、1点の重みは大きい。それが2点差、しかも後半の時点であればなおさらだ。2点差であっても安全圏では決してない——衝撃的な展開に、サッカーファンは改めて「2-0は危険なスコア」を噛み締めたのではないだろうか。

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そんな「2-0は危険なスコア」を初めて体験した試合はどこだったかというと、1998年11月3日のJリーグ2ndステージ第15節・横浜マリノス vs 浦和レッズの試合を思い出す。

国立競技場で行われたこの試合は、私が初めて現地で観戦した浦和レッズの試合だった。

98年の横浜マリノス vs 浦和レッズ

1998年はフランスでワールドカップが行われた年だった。日本代表が初めて出場したW杯だ。

2ステージ制で行われていたJリーグは、1stステージをジュビロ磐田が制覇。2ndステージは第14節を終えた時点で鹿島アントラーズが首位に立つ。磐田、清水エスパルスと続き、浦和レッズが鹿島と7ポイント差で4位に、横浜マリノスが8ポイント差で5位につけていた。

優勝争いの行方は鹿島と磐田に絞られていたものの、注目の上位対決。国立競技場には41,786人が詰めかけた。
当時小学生だった私は母と一緒にバックスタンドで観戦。所属していた少年団(横浜市)の監督からマリノスのチケットをもらって試合を見に行くことは何度かあった中で、レッズ戦は初めての観戦だった。

小野伸二28番、松田直樹14番

1stステージを7位で終えた浦和レッズは、2ndステージで開幕6連勝を達成。アジアユース選手権のU-19日本代表に選ばれた小野が不在となった10月の5試合で2勝3敗と失速して優勝争いからは脱落したが、この横浜マリノス戦では戻ってきた小野がスタメンに名を連ねている。

横浜M      浦和 
川口 能活 GK 土田 尚史
丸山 良明 DF 山田 暢久
小村 徳男
 DF 西野  努
松田 直樹 DF ザッペッラ
路木 龍次 DF 土橋 正樹
  上野 良治 MF ペトロヴィッチ
野田  知 MF 石井 俊也
遠藤 彰弘 MF 小野 伸二
バルディビエソ MF べギリスタイン
城  彰二 FW 大柴 健二
安永聡太郎 FW 福田 正博

浦和のルーキー・小野伸二は背番号28、マリノスの松田直樹は背番号14。なおこの試合はベンチ外だった当時2年目の中村俊輔は、背番号25を着用していたシーズンだった。

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(布陣は仮のものです)

ホームのマリノスはGKに日本代表の川口能活。最終ラインは丸山良明、松田に、フランスW杯代表の小村徳男。左サイドは翌年途中に浦和へ移籍した路木龍次。

中盤は武南高校出身の上野良治に守備のユーティリティ・野田知、10番を背負う元ボリビア代表のバルディビエソ、遠藤彰弘が構成。ご存知の通り遠藤保仁の実兄である遠藤は、96年アトランタ五輪のメンバーだった。

前線には日本代表の城彰二と、スペインへの期限付き移籍から夏に復帰した安永聡太郎。

対するレッズのバックラインは、現在もフロントスタッフとしてクラブの根幹を支える土田尚史、西野努。夏に加入したザッペッラ、2年後に浦和を救う一撃をもたらすことになる土橋正樹、そして当時23歳の山田暢久が名を連ねている。

ボランチは後の指揮官・ペトロヴィッチに石井俊也。元スペイン代表のべギリスタインと小野伸二が攻撃の枢軸を担い、大柴健二とミスターレッズ・福田正博がツートップを組んだ。

監督はマリノスがハビエル・アスカルゴエタ。浦和が原博実。スコットランド人のレスリー・モットラム主審のホイッスルで、試合は幕を開ける。

コールの応酬

この試合の少し前、10月29日に、横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併が報道により発覚。事実上はマリノスに吸収合併される形でフリューゲルスが消滅する形だった。

横浜Mと浦和の試合は合併発表後としては2試合目にあたる。国立競技場の外ではフリューゲルスサポーターによる合併反対の署名運動が行われており、母と一緒に署名をしたことを覚えている。

フリューゲルスはもちろんのこと、マリノスも「横浜マリノス」としては最後のシーズンとなった。試合開始前にはサポーターが「横浜マリノス」コールを叫び、呼応する形でアウェイのレッズサポーターが「横浜」コールを送る。それに対して再びマリノス側は「浦和レッズ」コールで答えるという一幕があった。

マリノスとフリューゲルスに迫った状況を理解できていなく、エール交換のようなものかと当時は思っていたが、そんなものでは全くない。ここの文脈は清尾淳さんのYouTubeで詳しく回顧されているのでご覧いただきたい。

後半40分からの奇跡

肝心の試合については、Jリーグ公式チャンネルのマッチアーカイブの映像を用いながら振り返っていく。

前半を0-0で終えた両チーム。試合を先に動かしたのは、後半早々、大柴健二に代えて岡野雅行を投入した浦和だった。
後半22分。カウンターから左サイドへ展開すると、クロスボールは中央に入ってきた岡野の上を抜けてファーサイドへ。こちらも長い距離を走ってきた小野がボレーで合わせ、川口の守るゴールをこじ開けた。

その10分後にはゴールライン近くまで切り込んだ岡野が上げた山なりのクロスを、福田がヘディングでトラップしてボレーシュート。ファーストタッチがゴールとは反対方向に流れて難しい体勢だったが、綺麗にファーのサイドネットへ突き刺した。響き渡るゲットゴール福田。

福田の得点は77分。ロスタイム(当時)を含めても、2点を追うマリノスに残された時間は20分にも満たなかった。浦和はリードを保って試合を進める。時計の針は後半40分に差し掛かろうとしていた。

2失点目を喫したマリノスは安永に代えて186cm岡山一成を投入。すると後半40分、右からアーリー気味に入れたクロスがレッズDFの頭上を越えてファーの城に届く。これを冷静に流し込んで1-2。

さらに44分。同じような位置から入ったクロスに、城が今度はDFの前で合わせて同点。絶体絶命の劣勢からついに追いついた。

当時はまだVゴール方式の延長戦、その後にはPK戦が採用されていた。しかし、マリノスの勢いを浦和が止めることはもうできなかった。国立の雰囲気は異様なものになっていた。

ロスタイムに入ると、城が中央でドリブルを開始。スピードに乗ったところでノールック気味に出したスルーパスはやや左に流れたが、抜け出した遠藤は土田の鼻先で左足を差し出す。

逆転。
人差し指を突き立てながら両腕を広げた遠藤のゴールパフォーマンスは今でもはっきりと覚えている。ロスタイムは確か4分だったと思う。10分弱でマリノスが試合をひっくり返した。レッズにもう一度立ち向かう力は残されていなかった。

レスリー・モットラムがタイムアップの笛を吹く。アウェイゴール裏ではブーイングが巻き起こっていた。嵐のようだった。怖かった。

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「凄いね!凄かったね!」

マリノスが好きだった母は、スタジアムを出た後も大興奮だった。浦和が得点を重ねるたびに「俊輔がいないからやっぱり…」とぼやき、意気消沈していた数十分前の姿は嘘のようだった。何なら試合終了を待たずに帰路へ着こうとしていた向きまである。

両サポーターが入り混じる中、手を引かれて千駄ヶ谷の駅に着くと、私は涙をこぼしたらしい。らしい、というのは自分では覚えていないからで、母に後で聞いたことだ。
マリノスの逆転劇に感動したのではなくて、悔しかった。私はレッズを初めて生で観たあの日、生まれて初めてブーイングを体験した。それまで観たマリノスの試合でもブーイングはあったのかもしれない。けれど別物だった。

1998年11月3日。それは私にとって「2-0は危険なスコア」の原体験となり、心から応援するクラブを見つけた日になった。

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