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卯月コウによる救いの変遷

このnoteではタイトルの通り卯月コウという存在とその在り方による救いが、どのように変遷してきたのか、を推測を交えて述べる。

注意していただきたいのは、この文章には救われた人間としての当事者性が欠けているという点だ。なぜならこの文章を書いている私自身が卯月コウに救われたという経験(あるいは自覚)が無いからだ。

私が卯月コウにハマったのは「神楽めあ」とのカップル配信というエンタメに振り切った回だ。卯月コウ屈指の神回であるコウボーイ、エモグランプリ、BSS企画などではない。

よってこの記事には救われた当事者としての熱量や説得力というものはないかもしれない。(余談だが、これは卯月コウのリスナーとして私が謎の負い目を感じている部分でもある。)

それでは本題に入る。卯月コウの在り方と救いはどのように変わってきたのだろうか。ここでは大きく分けて「初期」と「現在」という2つのフェーズで述べる。

初期の卯月コウは、彼自身が負の側にいた。暗闇に沈むことによって目が暗闇に慣れるように、当事者としての共感や寄り添いによる救いがあった。

これは非常に強烈な救いであると推測される。孤独だと思っていたところに卯月コウが現れて「俺も同じだよ」と言ってくるのだから。しかも、その卯月コウは決して光で照らしてきたりはしない。強く同調し、救われてしまっても仕方がない。

一方で現在の卯月コウは、もはや負の当事者たり得ないことを自覚している。「Fantasia Day 2」の振り返り配信を見ると、「幸せには抗えない」「過去の自分をステージに上げる(そしてボコボコにする)」という発言から、卯月コウ自身が過去の自分と現在の自分の立場の違いを認識していることが分かる。

卯月コウは暗闇を抜け出した(ように見える)。そこで行われる救いは過去の救いと比べて非常にマイルドなモノになったと言える。それは強い同調を呼び起こす救いではなくなった。以前のように一部の人間に深く救いを与える存在ではなくなった。しかし、降り注ぐアガペーのように広く、優しさを与える救いになっているのではないだろうか。以上が卯月コウの救いの変遷だ。

以下はこの変化をいかにポジティブに受け取るのか、という個人的な見解であり、蛇足だ。

以上の変化を残念に思うリスナーもいるかもしれない。しかし、私が思うにこれは卯月コウの前進であり、わたしたちの前進でもあると思うのだ。

なぜなら過去の救いが心理的距離の近い個人(リスナー)と個人(卯月コウ)の一方的なやり取りであったのに対して、現在の救いは互いをコンテンツとして交流を図る相互干渉的で循環的なものと言えるからだ。

お便りやコメントという形でリスナーはコンテンツ化され、それを読む卯月コウを我々リスナーはコンテンツとして受容する。それに影響を受けてリスナーはコメントを打ち、それを受けて卯月コウは……etc。そこには終わりはなく、循環するサイクルがある。

一方的に完結していた過去の救いと比べると卯月コウも我々も前進していると言えないだろうか?救いの持続可能性という意味では現在の救いの方が適っているし、健全だと言えると思う。

卯月コウが変わったことは事実だ。だがごく個人的な意見だが、卯月コウの芯の部分には「優しさ」というものがあり、卯月コウが望むと望まないに関わらず人を救っていくことには変わりがないのだと思う。

「救ってくれる卯月コウ」が好きなのではなく「卯月コウという人格それ自体」が好きならば、我々は「自分が以前と同じように救われ続けられない」という事実を受け入れて、それでも卯月コウが「誰かを救い続ける」ということに目を向けるべきなのだと思う。そしてそれが新たな救いにつながるのだとも思う。

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