シャニマスにおけるアイドルというイデアの二次性

シャニマスはアイドルを描く、というよりもアイドルを目指す、あるいはアイドルになった人間を第一に描く、というのが本稿の主張だ。主役はアイドルにではなく、あくまで人間にある。七草にちかという普通の人間の登場によってこの主張は言語化に至った。


従来のアイドルマスターはその夢見る乙女たちが最終的にどのような「アイドル」として完成するのか、ということに焦点があった。しかし、シャニマスのスタンスは明らかに異なる。


シャニマスにおいてアイドルというものはむしろ単なる契機であって、それを通してキャラクターがどのような個性を、思考を持つ人間なのか描くことを第一にしているのだ。


従来のアイマスが完成されたイデアとしてのアイドルを目指すとするならば、シャニマスはそのアイドルというイデアを個人という無限の幅を持つ現実的な存在によって大きく(それこそ無限に)拡張する。


顕著な例としてはノクチルのスタンスが挙げられる。彼女らがアイドルになった動機は「幼馴染と一緒にいられるから」である。そこにアイドルへの憧れや、夢を届けるというキラキラした目的は存在しない。さらにそのアイドルに対する冷めた視線がシナリオの中で根本的に「改善」されることはない。(少なくとも今のところ)


アイドルであればファンに感謝し、常に笑顔であり、清楚であれという無言の要求をはねのける。なぜなら彼女らはアイドルである前に一人の人間であるからだ。この当たり前の前提を、しかしシャニマスは堅持する。


アイドルという概念は見たくない嫌な部分を切り落とし、洗練されたイデアである。そしてそのイデアを提示し続けるのがアイドルだった。しかし、その切り落としによって生まれる痛みをシャニマスは見逃さず描写し続ける。それは完成していくアイドルを描くというよりも、アイドルになろうとして結局なり切れない人間を描く仕事であると思う。


アイドルという概念の神格化を避けに避け続けるシャニマスの今後にますます注目です(尻切れトンボ)

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